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外国語も疲労

 文章を書くことは一つの行為である。どんな言語を使おうと、文章を書くという基本的状態は変わらない。ある意味では、文章を書くことは芸術行為に近い。

 なぜなら、高いレベルでの意義においては日常を超えた体験であり、記憶している現実の枝葉を取り集めて束ね、最初から並べなおし、組み合わせていき、さらには時空を越え、縦横無碍にやりとりし、全面一新する。

 過去の記憶の真実をひとつひとつ淡くおぼろげにするか、もしくはぼんやりした真実をひとつひとつ充実させ拡大するか、ということなのである。

 外国語で書くということはまた言語の芸術でもあるが、言語はなにも孤立したものではなく、一を二へ、二を三へと推し広げていく。世の中の言語はすべて感情の表意を用いてきたのであり、意思疎通や理解本能を持ち合わせている。先天的な母国語であろうと、後天的な非母国語であろうと、ふたつの言語が記憶している現実の入口に立っていれば、それはまさに思い考えたことの出口と道筋になる。この道筋は交わることのない平行線ではなく、多くはそれらが互いに纏わりあい、はっきりと枝分れしたかと思うと、また複雑に絡み合うのだ。

 中学の外国語の授業で、かつてこのように感じたことがある。一時期、英語の進歩はとても早くて、おちゃのこさいさい、向かうところ敵無しだった。しかし、この時期をすぎると、英語の進歩は突然止まってしまった。どんなに一生懸命努力しても、それ以上伸びないのだ。外国語の勉強に疲れたのか、泥沼に足を踏み入れたかのように、前へ進むことも、後ろへ下がることもできなくなってしまった。

 さらにしばらくたったころ、偶然のきっかけから、私は突然中国語の小説を読むことに熱中した。飢えていたかのように、中国語を見ると嬉しくなり、母国語を読むという快感が全身に染みわたった。このような母国語への回帰という段階を経たのち、再度英語の勉強に戻ると、また進歩しはじめたのだ。非母国語は母国語の強力な支えものもとにある。まるで大力士に一気に持ち上げられたかのように、外国語疲れはいっぺんに吹き飛んでしまった。母国語は初心なのである。

 思うには念仏の最初段階でも、これと似た経験があるのではないか。つまり、疲れを感じたら、ただちに初心に戻り、再出発すればいい。
by amaodq78 | 2008-06-07 10:37 | 文事清流
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