カラスよ、その色が見える?

   国道2号線の南側にある阪神電鉄の芦屋駅から海岸にむかっての緩やかな傾斜地に、長さ十数キロメートル近くにも及ぶ細い川が延びている。河沿いに道路の端から南方を眺めると、左右の建物にはさまれて彼方に海が見え、その上に空がある。

   道は古びた灰色の敷石で幅いっぱいに舗装され、それが自動車道になっている。

   今から数年ほど前だったと思うが、そのあたりの立派な和風の屋敷にイギリスからやってきたキリスト教の修道会が入居した。私はふとした縁で週一回そこで日本語を教えることになった。部屋には机と椅子が運び込まれ、新しい居住者たちは日本的な雰囲気を楽しんでいる様子だった。それから間もなく、イギリス人が庭を見て私に「黄色い花が咲いていますが、あれは不吉な色ですよ」と言ってきた。私はびっくりした。

   中国で黄色というと、まず皇帝の黄袍が連想され、中国一番の色、とはいわないまでも、少なくとも高貴な色という印象がある。不吉とはどういうことかと不思議に思い、よろしい、彼の説明を拝聴しようではないかと耳を傾けることにした。
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   話を聞けば、西洋では黄色はユダヤ教を象徴する色なのである。キリストが現われたとき、ユダヤ人たちは彼が救世主であることを認めず、そのまま捕まえて十字架にかけて処刑したが、中世以後ユダヤ教徒に対する憎しみと迫害がひどくなった。二十世紀に入ってドイツではナチスが台頭してその迫害が極に達した。ユダヤ人には黄色の衣服または星型の標識をつけさせたといわれる。

   また旧約聖書「創世記」十九章には、悪人の町ソドムとゴモラが火と硫黄の雨で破壊したことが記され、黄色は別の意味で不吉な色になった。硫黄は神が悪を懲らしめるために火と共に天から降らせるものだからである。

   しかし、黄色を邪悪の色として否定的にとらえる西洋キリスト教社会が存在する一方、自然界では野に咲く美しい花々の中には黄色が多く、夏になれば麦畑の黄色が楽しげに揺らめく。中国では黄色に染まった皇帝の英姿が鮮やかに描写されて飾られている。

   ところで東京都内では黄色いゴミ袋が目立つ。いったいなぜだろうと考えていたら、ある日、東京の友人から教えられ、思わず笑った。都内に住むカラスは黄色のゴミ袋に弱い。なぜならカラス諸君は黄色だけを識別することができないからだという。

   われわれ人間は、カラスの眼から見たら、どんな色に映るのだろうね?

(『仏教タイムス』連載・第44回)
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# by amaodq78 | 2006-08-18 16:03 | 新聞雑誌掲載文

無限の清涼

  新聞社を通じて読者の方からお手紙をいただくのはうれしい。また、直接に電子メールをちょうだいするのもありがたい。ホームページを開設したおかげで、ネット上の通信もずいぶん多くなってきた。文章を書くことは、川に石を投げるようなものである。多くの場合、その川も沈黙の闇に吸い込まれてゆくかのように、なにも返ってこない。しかし、作者としては石の落ちたあたりからカンッ、とかパシャとか、なにか音が響いてくるのを期待する。最近、私は特にそう思っている。

  先日、こんなたよりをいただいた。

  「中国の僧侶について、その様子をすこしご紹介していただけないですか?」

  案外とこういうシンプルな質問ほど、どう返事を送ろうかと困ってしまう。中国の僧侶についてと言われても、僧侶もひとりひとり人間それぞれの性格もちがうだろうし、一概には言いにくいからだ。せっかくのお便りに返事を出さなければと焦っているうちに、なぜか私がはじめて出会った僧侶のことが思い出された。そして、概ね以下のような趣旨で返事を書いた。

  私は大学時代に五台山に登りに行ったことがある。その日は予想以上に暖かかった。晩冬なのに、季節を縛っていた糸がふっと緩んだ感じで、まるで初夏のような風だ。背中が汗びっしょりになった。疲労困憊した私はどこか近くに休める場所はないかとあたりを見回した。

  そのとき僧侶の風体の男が横をすっと通り過ぎた。私はその場に立ち止まったまま彼の後ろ姿を何気なく見送った。坊主頭の男は大きな包みをひとつ肩にかけていたが、汗もかかず、私のようにはあはあともいっていなかった。両足は軽く前に跳ね進み、私とは大違いだ。不思議に思って見ていると、少し先のほうで男は道端に座った。そして、皿のようなものを取り出して、静かに食べはじめた。息切れもせず平気で山を登れる人間は、さぞすごい料理でも食っているだろうと思って私は男にそれとなく近づいて覗き込んだ。なんと普通の豆腐じゃないか?山道に根を上げているくせに肉や魚をたっぷり詰込んだ弁当を持っている自分が恥ずかしく思えて仕方がない。

  豆腐を食べ終わると僧侶は無言のまま、またすたすたと歩き出した。遠ざかる男の背中の包みに書かれた「無限清涼」という四文字に、そのときはじめて気がついた。
 
(『仏教タイムス』連載・第74回)
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# by amaodq78 | 2006-08-15 16:16 | 新聞雑誌掲載文

上海ブックフェア

  新しい読書の潮流は、なにかが変わってからいきなり現れるのではなく、十年あるいはもっと前に芽を出し、地味ながら少しずつ育ち始めていたというものが少なくない。中国での僕の読者もそういう潮流のひとつでも言おうか。

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『ウェネバー上海版』2006年9月号掲載
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# by amaodq78 | 2006-08-14 23:26 | 文事清流

日本語を習う人びと

 友人の日本外交官が紹介してくれた大連市第17回“キヤノン杯”日本語スピーチコンテストの話。今回大連滞在中にその会場は偶然にも僕の宿泊先のホテルと同じだったこともあって、友人と一緒に参加してみた。それはやはり、コンテストのレベルの高さにまず驚く。

 応募人数は3500名に近い数字だというから、大連での日本語ブームを改めて認識させてくれた気がする。
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 写真はキヤノンの内田社長と大連市副市長のご挨拶、下は今年の優勝者3人。
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 大会の後、優勝者の原稿を読んだ。今年のテーマは『水と私の生活』。スピーチコンテストにテーマのあるのは普通と言えば普通。しかし、テーマが提出されるわずか30分前、決勝戦に残った選手誰もが知らされないというのも又、違った意味で面白い。もちろん、授業中の作文ではないから、テーマをはじめて知っていても、今まで周到に準備してきたスピーチ原稿をその会場の控え室で切捨てなければならない。後はアドリブでテーマになっているこの『水と私の生活』への対応だけが要求されるのである。実に見事な仕組みだと思う。

 このような日本語スピーチコンテストはもっと積極的に行われれば、日中両国の相互理解にも役立つことになるのである。
 
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# by amaodq78 | 2006-06-11 10:43 | 文事清流

日本人への旅

 講演後の質疑応答がこんなに活発なものになるとは思っていなかった。ある学生はこう質問した「作家は生活そのものを選ぶと思います。東京の歌舞伎町のような劇的な場所が好きな人もいるけれど、あなたはあなたの周りのことのほうが好きだということですね?」。またある年配の方からはこんな質問が出た「あなたの細やかな描写は日本的な方法の影響を受けているのですか?それとも努めて日本的な方法を超えようとしているのですか?」

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 間違いなく、彼女たちは私の手の内を掴んでいる。私が言いたくて、また同時にあまり言いたくない、締めくくりの言葉を言ってくれた。実際のところ、こんなに多くの学生諸君を前にして、またこんなに熱心に日本を理解しようとする聴衆に対して、私は何を見せたら、日本に対する私の理解を示すことができるのだろう?

 隣国に住む一人の北京人であり、日本語での表現に力を注ぎ、同時に母国語が生まれながらにして私に与えてくれたものを享受している。こんな私の日本に対する理解は言語の内部から始まっているのかもしれない。

 講演会が始まる直前、北京大学の主催者から「今年は抗日戦争勝利六〇周年です。学生からは多分たいへん敏感な質問が出るでしょう」といわれたが、私は即座に「たいへん歓迎です」と答えた。私の言うところの「たいへん」と主催者の言う「たいへん」は同じ重さのものだと何となく感じたので迷うことなく答えた。

 このように言うのには、実は何も深い理由があるわけではない。私の日本での生活はリアルなものだから、ほとんどすべての問題は人間の、風景の、もちろん動物も含めて具体的な表情に置き換えることができる。講演のとき、普段からあまり原稿を使わない。とりわけ、皆と話し合うときにエピソードを交えると、即興の言葉が飛び出し、その飛び出した言葉が皆の笑いを呼ぶことが多いからである。
 
 私は一人の旅行者である。日本人への旅を続けている人間である。1998年から日本語での執筆をはじめ、日本語を使って日本を表現して、紀行文学の二カ国語作家となってからも、このポジションに変化はない。ある時期、周囲の日本人が「中国人はそもそも日本を理解していない」といい、そういうときの彼らはいかにも自分が中国を理解しているといわんばかりだった。このような話を聞くたびいつも耳障りだった。心から言うが、私は日本人が中国を理解することを望んでいるし、また中国の日本への理解は日本の中国への理解より、もっと必要かもしれないと思っている。とはいえ今の時代にも日本を理解する中国人がいないわけではあるまい。 

 知ることは理解の入り口である。この入り口を通る道は一つではない。もし、学識上の見解は幅広い知識の海から汲み取れるものだという人がいたとしても、その人の見解は自身の日本での実際の生活を超えるものではない。私は日本語の「等身大」という言葉をよく使う。中国語で言えば「原大」にあたるかと思うが、「等身大」にはそれだけでは言い表せない語感が含まれている。「等身大」の意味するものは、相手と自分が同じ身長、同じ体重、同じ視点であらゆるこまごましたことを観察する、そこから得られた完全に自分自身の感性による結論と判断である。

  講演中、日本人にとっての「悲」について話した。私のある友人が不治の病におかされた娘に桜の花を見せる話をした。大雨のあと、夜通し地面の桜の花びらを拾い上げ、大きな山をつくり、二階の病室にいる娘が窓から見られるようにしようとした。しかし彼は、そのとき娘がすでに臨終の時を迎えていることを知らされ、花びらをいっぱいに詰めた袋を提げて一目散に病室へ走っていった。そのとき袋が金属の手すりに当たって裂け、彼の後ろには悲しみの桜の道が一筋のこされた。

 また、日本人の「愁」について、近所のサラリーマンのことを話した。彼は会社が不景気でリストラされ、一日中家でふさぎこんでいた。ある日たまたま商店街を歩いていて、突然現れた野良猫が宝石店に入っていき、煙のように入り込んだかと思うと、ショーケースに飛び乗り、宝石を飲み込んだというのだ。そこで彼は不安になってきて、夜になって私を呼びこう言うのだ。人間は猫にも劣る、猫が一気に宝石を飲み込めるのに、人間は会社からクビになる。彼は落ち込んだようだが、同時に猫を殺して宝物を取り出すという考えが浮かんだらしい。そこで彼はいくつもの方法を考えた。たとえば、落とし穴を掘って溺れさす、あるいはナイロンの網で捕まえるなどだ。ほどなく、野良猫は彼の家の庭に現れて、傍若無人な様子で、大きな口を開けて吐きだした。野良猫が吐き出したのは、宝石でもなんでもない、小さな石ころだったのである。私はなんとばかげた出来事かと思ったが、そのとき、彼が猫の歩いていったほうを向いて手を合わせ、「南無阿弥陀仏」と唱えているのに気がついた。

 間違いなく、今述べた些細なことは私の生活の中で起こったことである。そしてこの些細なことこそがまぎれもなく私の日本に対する理解である。講演中、日本人の「怨」と「恨」についても述べたが、どんな抽象的な概念であっても、喜怒哀楽の情感でも、いつも具体的な状況のなかにそれらを置くことができる。なぜなら私は生活こそ常緑の樹であると信じているからである。

 講演会では私が期待していたたいへん敏感な問題については、だれも質問しなかった。しかし、敏感な問題であっても私の答えはきっと細かく具体的なもので、何ら抽象的なものではなかっただろう。
 
 最後に、日本国際交流基金会北京事務所と北京大学がこの講演会の機会を与えてくださったことに感謝したい。また日本語版「人民日報」編集長の王衆一氏に感謝したい。彼との対話のなかで、私が思い感じていることがだんだん具体的になり、だんだん細かくなってきた。私たちは文化とは多様な情況論であり、単一的な思想論であるべきではないという同じ考えを持っている。
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 (2005年9月10日 北京大学で毛丹青『等身大の日本』の講演会が行われました。全文は国際交流基金のPR誌に掲載)
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# by amaodq78 | 2006-03-01 11:07 | 新聞雑誌掲載文