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北京依存度指数

 私にとって日本は、長年住み慣れた異国なのは間違いない。だから、学生と話していると、時々こんな質問をされてハッとすることがある。たとえばこんな質問だ。「毛先生は僕が生まれる前から、長い間日本に住んでおられますが、どうしてですか?」

 「君は今何歳だ?」学生に尋ねると、彼は「1990年生まれです」と答えた。たしかにその年には、私はすでに日本で猛烈に仕事をしていた。水産物を扱う商社で、見習いではなくすでに漁師と一緒に海に出て、遠洋まで行くようになっていた。不思議なことに、こんな質問は北京で出ることが多い。日本でなら、学生からこんな質問が出てもそれほど驚かないだろう。少なくとも、北京で質問されるほどは驚かないだろうに。
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 今回、北京に戻って雍和宮(チベット仏教の寺院)のそばを通ったら、「起名(子供の名づけ)」の看板がいくつも出ていた。赤い看板に金色の文字が目を引く。きっと雍和宮の参拝者をあてこんだ看板だ。人がこの世に生まれたら、名前を得ることは命を得ることと同じくらい重要なことだ。名前のない生命は存在しない。

 北京に戻る回数が増えるにつれて、内心の微妙な変化に気が付いてきた。たとえば喋る速さもその一つだ。同じように取材を受けても、日本語で答えるときは、いつもより早口になる。とくに東京では、口の中に感じる空気に、一言でも多くしゃべれと急かされているようだ。反対に北京では、空気が「落ち着け、早口になるな」となだめているように感じるから、自然と早口も影をひそめる。

 西安に行くと京都で話すよりもゆっくりになるのと同じく、北京では東京よりゆっくり話すようになる。北京で過ごした数日はゆるやかに過ぎていき、毎日いい天気で、周りは顔なじみばかり、それに新しい友達もたくさんできた。どうか皆さんごきげんよう、また次回お会いしましょう。(『仏教タイムス』連載第145回 平成23年4月21日掲載)
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by amaodq78 | 2011-04-24 10:00 | 文事清流

日本語とその空間

 日本語の読書は、僕にとってまるで昼寝や遊びのように無意識に生活のなかに侵入してきたものであった。その場合、僕をとらえた母国語の中国語と同じぐらい、日本語を読んだ「実在」そのものが密接な背景として思い出される。

 近所の日当たりのよい桜並木の散歩道、タバコの匂いがしみ込んだ僕の書斎の古い椅子。覚えたての日本語をたどれば、新たな表現の世界が扉を開けて待っているという発見が僕を夢中にさせたのである。そして、今日も日本語の本を読み続けている。
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by amaodq78 | 2011-04-07 09:49 | ノスタルジックな時間

『知日』第二号、間もなく発売

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by amaodq78 | 2011-04-02 08:47 | 文事清流