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書くという作業

 何気なく辞書で「虫」の項を引いてみたら、いくつかの説明の中でしっかりと「潜在する意識。ある考えや感情を起すもとになるもの。古くは心の中に考えや感情をひき起こす虫がいると考えていた」と書いてある。
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 いわば、いつもでありながら、とくに四十代に突入した頃に僕は頭ではなく体のほうを信じるようになった。それまでの自分を振り返って、理屈で動くとロクなことはなく、体よりはどちらかというと、直観に従ったほうがわりと正解になっているように思ったからだ。頭はよくない。いまは体のほうがまだしも頼りになりそうだ、と思ったからだ。

 今にして考えれば、腹の虫の声によく耳を傾けようと思ったわけだが、増長させているかもしれない。虫が好く。こういう感じで人間関係を築いてきた。おかげで僕は、文筆業者(言葉のプロ)というタイプの多くの友人に恵まれている。

 学者ではないと僕は誰に対しても言うが、「日本的」肌感覚を掴む、その一点ばりには舌を巻く思いも時々ある気がする。日本というファンターシー的な実像に少しでも迫ろうとアプローチをかけたいものだ。今日もなにかと書き続けている。

 +上記の画像↑ 新刊著書『感悟日本』(全二巻・日本語と中国語) 華東理工大学出版社 2008年春から中国全土発売中
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by amaodq78 | 2008-06-18 19:25

わが猫の物語

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by amaodq78 | 2008-06-13 17:21 | 黒猫の隣歩き

余華は動詞の人である

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 新刊『兄弟』(余華著・泉京鹿訳)文藝春秋2008年6月下旬発売↑
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  初出『中国語ジャーナル』2007年2月号↑ 最新作『兄弟』はベストセラー 映画『活きる』の原作者余華+聞き手・毛丹青
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by amaodq78 | 2008-06-09 21:41 | 文事清流

外国語も疲労

 文章を書くことは一つの行為である。どんな言語を使おうと、文章を書くという基本的状態は変わらない。ある意味では、文章を書くことは芸術行為に近い。

 なぜなら、高いレベルでの意義においては日常を超えた体験であり、記憶している現実の枝葉を取り集めて束ね、最初から並べなおし、組み合わせていき、さらには時空を越え、縦横無碍にやりとりし、全面一新する。

 過去の記憶の真実をひとつひとつ淡くおぼろげにするか、もしくはぼんやりした真実をひとつひとつ充実させ拡大するか、ということなのである。

 外国語で書くということはまた言語の芸術でもあるが、言語はなにも孤立したものではなく、一を二へ、二を三へと推し広げていく。世の中の言語はすべて感情の表意を用いてきたのであり、意思疎通や理解本能を持ち合わせている。先天的な母国語であろうと、後天的な非母国語であろうと、ふたつの言語が記憶している現実の入口に立っていれば、それはまさに思い考えたことの出口と道筋になる。この道筋は交わることのない平行線ではなく、多くはそれらが互いに纏わりあい、はっきりと枝分れしたかと思うと、また複雑に絡み合うのだ。

 中学の外国語の授業で、かつてこのように感じたことがある。一時期、英語の進歩はとても早くて、おちゃのこさいさい、向かうところ敵無しだった。しかし、この時期をすぎると、英語の進歩は突然止まってしまった。どんなに一生懸命努力しても、それ以上伸びないのだ。外国語の勉強に疲れたのか、泥沼に足を踏み入れたかのように、前へ進むことも、後ろへ下がることもできなくなってしまった。

 さらにしばらくたったころ、偶然のきっかけから、私は突然中国語の小説を読むことに熱中した。飢えていたかのように、中国語を見ると嬉しくなり、母国語を読むという快感が全身に染みわたった。このような母国語への回帰という段階を経たのち、再度英語の勉強に戻ると、また進歩しはじめたのだ。非母国語は母国語の強力な支えものもとにある。まるで大力士に一気に持ち上げられたかのように、外国語疲れはいっぺんに吹き飛んでしまった。母国語は初心なのである。

 思うには念仏の最初段階でも、これと似た経験があるのではないか。つまり、疲れを感じたら、ただちに初心に戻り、再出発すればいい。
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by amaodq78 | 2008-06-07 10:37 | 文事清流