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ミクシィを整理すること

 簡単にミクシィを紹介すると、一見して無料チャットを楽しめる掲示板のように誤解をうけるようだが、そんな単純な使い方ではない。

 人は、ひとりで生きているわけではない。社会は意気投合の人だけでは成り立っているわけではない。

 そんな社会のひとりとして生きている以上、時には思い込んだり、記憶に残したりしたいことを感じるときもあるだろう。「ひとごと」でもいいから、それを書けば、昔のいまを、僕は成長した記録によって、再び過ごすことになるのである。

 なにげなく書いた記録が、もしかしたらここに凝縮されているかもしれない。みんなの語り場ではない。むしろ、それと真っ向から対峙することこそが、「僕としての記録」を施して行くのである。

 最初から「友人まで公開」の機能を使用してきているから、原則的に僕との面識がある人しか招待しないつもりでいる。つまり、本当の意味での知人か友人でなければならない。末永くよろしく!
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by amaodq78 | 2008-03-26 09:32 | 文事清流

中国の映画に見る「悪人正機」

 親鸞聖人の教えは、中国の社会にもあるのだろうか。『歎異抄』を中国語に訳した私だが、時々考えながら、映画『芙蓉鎮』(配給・東光徳間)に注目したい。
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 物語は、中国の南方の片田舎に展開された。米豆腐の商売で成功を収めた胡玉音(フーユイイン)という女性が、資本主義のレッテルを貼られ、さらに文化大革命の嵐のなかで迫害されていくという話を、1963年から、文革を経て、1979年のその終結までという時間の流れの中で描いたものであった。

 新しい富農として罰を受けた彼女と、もともと右派として疎外され、文革によってさらに追い落とされた秦書田(チンシューテェエン)が、雨の日も風の日も雪の日も、芙蓉鎮の町の石畳を箒で掃き続けてきた。世間には悪人とも言われた彼らは、気持が沈むことなく、箒一本でもワールツのテンポに乗って、掃きながらダンスも楽しめた。そんな彼らを資本主義的ブルジョアジーと指弾する人もいた。

 もともと国営食堂の女店主だったが、美人で愛嬌がよく働き者の胡玉音の店が繁盛しているのを妬んで、何かあったら彼女を叩き落とそうとしていた。それが、政治工作班長になって権力を握ったとたんに、胡玉音の店を摘発する。結局、この女店主も時代に翻弄され、自分でも批判されたわけだ。民衆の前に、彼女はやたらに、「私はよい人だよ、彼らのような悪人ではないんだ」と繰り返した。自分は善人だと主張した彼女には、ある種の自力作善という構図もここで垣間見ることができる。

 やがて10年の刑を受けた秦書田と妊娠中の胡玉音と別れる時がきた。ここで、秦さんは大きな声で叫んだ。「どんなことあっても生き延びよう。畜生になっても、何になっても必ず生きるんだよ!」

 この感動的なシーンは、多くの中国人の胸を打った。激動の時代を生き残った人々ならではの思いが込められていると思われる。

 『歎異抄』の第二章には、このように書いている。いづれの行もおよびがたき身なれば、とても地獄は一定すみかぞかし。

 いわば、地獄はわれらの住み家なんだという思想も、あの激動中国にもあった。人間はどんなに追い落とされても、生きるだけはあきらめてはいけない。悪人であっても、救われる道があるから。この映画について、知人監督の謝晋(シエチン)は、こう説明している。『芙蓉鎮』は、文化大革命の時代、そしてその後と、十数年間にわたって受けた痛手をある小さいな村を通して描き出したものだ。重要な登場人物は八名、出て来る人家の戸数は数軒しかないが、この裏側に数千万の同じ苦しみを持つ人々がいると言えよう。
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by amaodq78 | 2008-03-22 14:31 | ノスタルジックな時間

莫言饅頭

 1999年の秋、中国の作家莫言さんが、彼の小説『豊乳肥臀』の翻訳刊行を機に初めて来日した。私は通訳として北京から同行し、飛行機で関西空港に入り、それからの日本滞在の約二週間の全日程を随行した。
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 中国と日本は歴史的にも文化的にも縁が深く、彼の小説『赤いコーリャン』『豊乳肥臀』にも深く日本の影が落とされている。このことについて彼は、中国東北地方で受けたインスピレーションをもとに日本に想像力を馳せたという。

 これが、莫言さんの描く日本に、中国東北とほぼ同じ緯度の北海道の情景がよく織り出される理由のひとつとも考えられる。日本に発つ前夜、北京市内で文化人の友達が何人か集まって食事会を開いてくれた。その席で、珍しくお酒を飲み干した莫言さんは、皆のまえで、「毛君は私より日本をよく知っている。今回は、彼の日本をこの私にもぜひ見せてほしい」と挨拶された。

 実は、二年ほどまえ、小文『川向こうの鐘の音』(拙著『にっぽん虫の眼紀行』法蔵館刊P144~154)の中国語版を莫言さんに読んでもらったことがあった。

 それは愛知県知立市にある称念寺のことを描いたものだったが、これを読み終えた莫言さんが私に「このお寺を見に行ってみたいなあ」と言ったのをいまもはっきりと憶えている。私には、莫言さんの言葉が、日本に10数年も住みなれたはずの私の真価を試すかのようにも聞えたが、小説家としての彼は純粋に一個人としての体験そのものを切実に望んでいただけかもしれない。

 莫言さんの訪日にあたって、滞在のスケジュールを組んだ。そのなかには私が詳しい伊勢神宮と神島も入れた。われわれは、京都から東へ移動し、日程の後半を東京で過ごすことになった。愛知県までは車で走った。ずっと私と莫言さんの二人旅だった。

 途中から莫言さんは、運転中の私を「小馬夫」と呼ぶようになり、私の説明でだいぶん日本を覗くことができたという。そして「毛君よ、日本できみは淵を泳ぐ魚のようだ。私はぴょんと跳ねるばかりのエビみたいだね」と楽しそうに笑った。

 称念寺に到着したのは、夜だった。山門の内に澄んだ池から月の水影が微かにみえる。お寺近くで和菓子屋の前を通りかかった。莫言さんが「お寺の近くには、菓子屋も必ずあるのかね?」と聞いた。

 お寺に入ってから、われわれを迎え入れた住職にそのことを聞くと、「お寺には法事が多くてお菓子や饅頭をよく使いますから、お菓子屋さんもお寺のまわりに集中するようになったかもしれませんね。お寺は町の顔ですよ」と答えた。

 本堂にお参りした後、住職が和菓子屋のご主人を呼んできた。莫言さんのことを紹介してから、皆で町に繰り出した。寿司を食べながら、中国の話題で盛り上った。その後、スナックにも行ったが、そこでも中国の話題が果てなかった。

 住職が「『豊乳肥臀』を早速買ってきたが、また読んでいない。二、三日中に読んでしまいたい」と言いながら、莫言さんと水割りで乾杯した。和菓子屋のご主人はその場の話題を聞き漏らさすまいとするように耳を傾けていた。莫言さんはいう。「お坊さんが人間の暮らしに深く潜れば、仏教が人の心に浸透するものになるだろうね」

 それを聞いた住職は、嬉しそうに笑った。

 その日、我々は寺に一泊した。翌朝、梵鐘の音に目覚めた。莫言さんは眠そうな目で言った。「いま、変な夢をみていた。空気がお坊さんの両手になって、私の身体をぐっと持ち上げ、あのお菓子屋の上空をぐるぐると旋回させた。」

 「そうですか?それじゃ、お菓子屋を覗いてみましょうか?」と私が誘うと、莫言さんは「そうだ、そうしよう」と早々と朝の支度を済ませた。

 和菓子屋の店内に入ってみると、ご主人と奥さんは既に仕事に取りかかっていた。私たちの来店をとても喜んでくれて、早速、新製品の饅頭を手渡された。柔らかく蒸した饅頭は、黄色の焔のようだ。

 莫言さんは満足そうに食べ終わると主人に「美味しい」と言い、さらに、「美味しさに言うこと莫し」との意味を込めて自分の名前にかけて「莫言(モーイエン)」と言った。 

 その後、私は自動車を寺に預かってもらい、莫言さんと新幹線で東京に向かった。連日の取材や講演会とNHKテレビの収録などで莫言さんの訛りを聞きつづけるうちに、北京出身の私にも彼の山東訛りがうつった気さえした。

 東京を離れる前の日、平凡社を表敬訪問している最中に、私の携帯電話が鳴った。電話の向こうから称念寺の住職の声が聞こえた。「莫言さんにお伝えください。彼の小説を読みました。私も菓子屋のご主人もとても感動しました。そこで、彼の名前にちなんで莫言饅頭をつくりたいので、帰りに少し早めに寺に寄ってください」

 私は、すぐにそれを莫言さんに伝えた。すると「そうですか?まさかあの夢がまた続いているわけじゃないだろうね」彼は照れくさそうに言った。

 次の日に、われわれは再び、お寺に立ち寄った。莫言さんを歓迎するために、本堂に小さな舞台も出来ていた。称念寺幼稚園の園児たちが賑やかな踊りを披露してくれた。黒衣を着た住職は輪袈裟も肩にかけて、和菓子屋のご主人と一緒に子供たちの後ろに並んだ。

 莫言さんは笑顔を絶やさず、子供の踊りに合わせて両手を叩いていた。舞台が終って、皆で記念写真も撮影し、最後に、住職のご厚意にこたえて、莫言さんは寺院の境内に公孫樹を記念に植えた……。

 2000年の旧正月、菓子屋のご主人は約3ヶ月間の試行錯誤の末、莫言饅頭を完成させた。新製品第一号をどうしても莫言さんと彼の家族に食べていただきたいと、ご主人は住職と私を誘って一緒に北京へ飛んだ。大晦日、われわれは莫言さんと奥さん、それに彼の娘さんと一緒に楽しく過ごした。

 皆で莫言饅頭を美味しくいただき、北京で新年を迎えることもできた。莫言さんはなにかを考えているようで、それから私にこう聞いてきた「私は、未だにあの夢の中にいるのかね?」

 私は、「あれは、夢ではなく、童話だったのかもしれないですよ」と思わず言った。

 莫言さんは、満面に笑みを浮かべていた。

注:(1)小馬夫:シャオマアフー。日本語の“御者”にあたる。(2)童話:メルヘン
  『月刊百科』誌(平凡社)2000年6月号に全文掲載・毛丹青著

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by amaodq78 | 2008-03-07 08:32 | 新聞雑誌掲載文

言葉の間へ

 素敵なレイアオトを眺め、時には考証じみたことをしながら感じるのは、昨年の夏からずっと暖まってきた企画をつらぬこうとした女性編集者と僕がいるという思いだ。

 そして、日本語と中国語の間で大きく葛藤されながら、結局は言語に対する誠実さによって、僕の日本語著書も日本語だけではなく、中国語の美を表し続けてきている。

 今月、日本語と中国語による再編集版の本が上海で出版される運びとなったのは、なにより嬉しいものである。日本語を書けるという純粋な表現の仕事は、たとえ対象が初心者の中国人学生であれ、表現者を夢中にさせるものである。無論、僕も例外ではなかった。

 ふと我に返ると編集者と自分が考えていたことに対して不思議さを感じる。このようなふたつの言語が一冊の本でも読み取れることは、今後の日本語教育につながっていて、実に興味深いところである。
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by amaodq78 | 2008-03-06 11:45 | 文事清流

今ではそうであること

 ここ数年、吉田富夫先生とはしょっちゅう顔を合わせている。初めて日本にやってきた20年前と比べるとお会いする回数も、いっしょに飲酒談笑することも格段に増えた。

 お会いする回数は増えたけれど、会うことの楽しさ自体は、今も昔もおおむね同じなのだ。いや、思い返してみると、かつてお会いしたころの方が面白かったかもしれない。あのころ、金がないため、留学の継続を諦めたちょうどそのころ、指導教官の清水正之先生は私を理解してくれていた。「君のような人が、日本社会をよく理解してくれることこそ、すばらしいことだよ」と言ってくれたのだ。

 そこで私は三重大学を退学して、エビと魚を扱う会社に転身した。3年の間、毎日真夜中に起き出して、菰野町湯の山温泉から名古屋の魚市場に車を走らせた。車を停めるころ、空はやっと魚の腹のような色になった。

 魚屋というのはなかなか刺激的な仕事で、冬に外一面雪が降っていたら、すぐにウマヅラハギが売れると予測できる。寒いと多くの人が鍋を食べたくなる、だから、ウマヅラハギさえ確保できれば、飛ぶように売れること間違いなかった。

 そのころ、三重大学の多くの教授は京都から来ておられた。私は彼らと学問を語ることが好きで、ちょっと高雅なことだと思っていた。魚市場のセリ声に慣れた身には、茶を啜りながらとりとめのない話を聞くのは、とても楽しく感じられた。ただ楽しいだけにとどまらず、教授たちの京都の自宅にもおじゃましたものだ。吉田先生と面識を得たのもこのころのことだった。先生は私がお訪ねした教授たちの友人だったのである。

 ある年の元旦、私は小型トラックを運転してわざわざ京都まで行って、先生方の家に一軒一軒魚を届けたことがある。

 魚は大きなマナガツオ、というのは、この極めて美味なる天然魚は年々少なくなっていたからだ。教授先生方に、私がいつまでもただの聴講生ではないと分かってもらうために、機会をとらえて自分の本領を示しておくのは、当然のことだった。もとより当時の私の本領は、エビや魚を売る以外に、全く何もなかったのだが。

 両手に、氷で冷やしたマナガツオの箱を抱えて、私は始めて吉田先生宅を訪ねた。家にはいると本だらけで本棚は天井まで届いている、なにか異様な雰囲気だった。一人は魚やエビを売っている私、一人は学問をしている吉田先生、この二人がいっしょにいることは、ちょっとした滑稽だった。

 酒を腹に収めながら、吉田先生はずっと私の話を聞いていた。魚や商売の奥深さ、未明に仕事にでて9時頃にはもう熱燗で一杯やって、それから後かたづけをして仕事を終える、そんな話だ。こんなことを話していると、まるで別の人種のようで、とりわけ吉田先生にしてみれば、当時の私はたぶん世間の生活を知らない北京の若造に過ぎなかっただろう。もちろん世間とは、日本のものだが。

 それから日が経ち、私は水産会社を辞めて、ある商社に勤めた。家も四日市から神戸に引っ越した。いうまでもなく吉田先生の京都にも近くなった。

 この間に大小さまざまな理由で、私たちは毎年会う機会ができ、さらに私が商売から文筆に転身したので、話題もだんだんとエビや魚から吉田先生が研究しておられる中国文学へと変わり始め、ついに私の得意話だったエビや魚も、文学にその地位を譲ったのだ。

 熱燗を一杯やると、吉田先生は滔々と話し始める。魯迅の研究と郭沫若から話し始め、銭鍾書が先生に宛てた私信を持ち出して見せてくれたり、とにかく中国について話し始めると、酒はいよいよ杯を重ねるのだった。吉田先生は大部の中国当代小説を何冊も翻訳しておられる。この十年余りの間に、『廃都』『土門』『白檀の刑』『四十一砲』などが日本で出版されたが、積み上げれば随分の高さになるだろう。

 いま思い返してみると、私が商売から身を引いて中国語と日本語の著述に力を注げるようになったことに対して、吉田先生の影響が那辺にあるかはっきり言えない。具体的にどういう方面か、これも分からない。しかし、中国文学について話が及ぶたびに、いつも興趣旺然、日本の読書市場に中国文学の分野を確立しなければならない、という先生の情熱は、しばしば私を感動さえさせるのだった。

 吉田先生や先生と同じような中国学者の努力を通じて、日本読書界の中国文学に対する需要は大幅に増え、かつて非主流に属していたその販路も随分と面目を新たにしてきた。

 その他にも書き留めておく価値があるのは、ここ数年、吉田先生といっしょに中国へ行って、莫言、史鉄生、さらに余華などと何度も直接会って交流したことだ。どの会見もいつも心温まるものだった。去年(06年)の末、私は先生に李鋭の小説『太平風物』を推薦した。李鋭本人と東京の出版社とも連絡を取り、吉田先生にご出馬願ってこの作品を翻訳されるようにお願いした。一週間もしないうちに電話を頂いた。「毛君、これは私がやるよ。」

 いま、先生の了解を得て李鋭に当てた先生の手紙の一部を写しておこう。「私たちは農民の生活をしたことがあります。汗を垂らして田植えをしたことがあります。これこそ私どもの縁でしょう。あの鎌も斧も鍬の刃も、40年前私が自分の手に持ったことのあるものと全く同じです。しかし現在の日本の農村では基本的に消滅しました。」

 吉田先生はそういう人だ。広島県の農村で育ち、いまに至るも、中国文学について話をするときは、いつでも郷土の息吹が濃厚に漂っている。この点は他の中国学者からはなかなか見いだせないものだ。何年か前、私は莫言といっしょに広島の先生の実家に行ったことがある。先生の弟さんは農民である。私たちと別れるときに、彼はトラクターの傍らに立ってひとことも言葉は発しなかったが、ただずっと私たちに向かって微笑んでおられた。

 聞くところによれば、中国であれ日本であれ、現在ではあの大きなマナガツオを捕るのはとてもむずかしくなっているそうだ。しかしもしまた手に入るなら、私は再び一箱を抱えて京都の吉田先生のお宅におじゃまして、熱燗を頂きながら中国の文学について存分に語り合いたいものだ。(浅野純一・訳)

      『吉田富夫先生退休記念・中国学論集』P69-71 汲古書院 
      2008年3月1日発行
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by amaodq78 | 2008-03-03 09:16 | 文事清流