<   2007年 08月 ( 4 )   > この月の画像一覧

風景に触れる旅

 北海道ロケハンの続きに、霍建起(フォー・ジェンチー)映画監督一行と北京からの同行で浙江省にやってきた。写真は美しい茶畑である。
e0060913_1752697.jpg

 村の家並は白い壁がつづき、向かいの竹林の緑と鮮やかなコントラストを見せている。波のように寄せてくる黒い甍は古くて懐かしいような気配をたたえている。おそらく唐の時代からそのままのただずまいの村であろう。 少しだけ真剣だったが、竹の海をバックにして、ロケハンの撮影モデルになった。
e0060913_1753408.jpg

[PR]
by amaodq78 | 2007-08-31 17:55 | 文事清流

天空への道

  中国映画界の第一人者、そして私の友人である田壮壮監督。彼は「俺は、その茶馬古道を歩きつづけてみて、これは信仰に生きる人達でなければ無理だ」と思いを深くして、初のドキュメンタリーを撮りはじめた。百キロ以上もキャラバンに密着取材を試みてついに公開にこぎつけた伝説のテレビ番組。それが2004年の春、NHKハイビジョンで放送された『天空への道』である。


  中国の雲南省からチベット、インドへとつながる茶馬古道では、標高3000メートルの険しい山道を数十頭の馬とラバを率いたキャラバン隊が往来し、生活物資を運んでいる。しかし、今その道に、地元政府による幹線道路建設計画が進められている。田監督はこのことをたいへん心配していた。「このままでは、道だけではなく、この道に頼る地域の生活も文化も消えていくのではないか」と。

  しかし、国際共同製作で完成した彼の番組はそんな心配をも吹き飛ばすパワーと豊かな感情に満ち溢れる映像美の作品に仕上っている。茶馬古道の信念深い人々が自分を襲った数奇な運命に翻弄されながらも、中国の周縁で自らを失わず凛とした生き方を貫く姿を活写していた。――― 小さい頃からキリスト教の家に育てられ、厳しい国内弾圧を乗り越えてきた104歳になるヌー族の老婆。原因不明の疫病で多くの仏教徒を失い、村全体は軍に収用されるなど寺の存続の危機を何度も克服してきたという70歳のラマ教の僧侶。そして50年間続けたキャラバンでの生活を語り、道を歩く旅こそわが人生だという元馬追い、などなど――― が素朴に赤裸々に繊細にあるいは豪放に描き出されている。

  『天空への道』はほかのどこでもない、人間の心の中にあるのだ。こういう意気込みが伝わってくる映像作品を見たのは初めてだった気がする。中国にはかつて、すべての宗教を弾圧する文化大革命の時期が存在していた。私には少年時代であったが、田壮壮監督は都市から農村に強制労働のために送られた、いわゆる「下放」の時であったに違いない。革命理想の苦界に身を沈めた大人達の感慨深さを当時の彼は身をもって噛み締めたことだろう。しかしそれがあるゆえに、映画監督としての彼の円熟を感じさせる初めてのドキュメンタリー番組が生まれた。

  本作品の中国語タイトルは『ドゥラム』、チベットの言葉で「平安の女神」を意味する。田壮壮監督によれば、キャラバンでたまたま乗ったラバの名前がドゥラムといい、茶馬古道沿いの人々の、苛酷な生活に耐えぬくその穏やかさと雰囲気にイメージに重なったため、このタイトルに決めたという。

(『仏教タイムス』連載・第102回)
[PR]
by amaodq78 | 2007-08-29 23:32 | 新聞雑誌掲載文

映像は偶然の世界でもある

 映画の美しい映像で大切なのは、極端的に言えば、いかに常識を裏切り、期待を満たすことができるのか、さらに現在ではいかに地球と向き合うかということも求められている。
e0060913_6365544.jpg

 しかし、親友の霍建起(フォー・ジェンチー・『山の郵便配達』)映画監督の北海道ロケハンに参加し、それを見ていると、どうも単なる極端性ではない気がする。映像において、やはり人間の直感が果たす役割は大きい。偶然にも『山の郵便配達』の名場面を彷彿させるお洒落な空間、目の前にあらわれてきたこともあって、霍監督が驚く。
e0060913_6373929.jpg

 写真はその山の近くに記念撮影↓霍建起監督のオリジナリティ溢れる映像表現とともに、美しい画面からビシビシ伝わってくるような映画を期待したい。
e0060913_650473.jpg

[PR]
by amaodq78 | 2007-08-22 06:38 | 文事清流

中国語ブログ400万アクセス突破

 ブログは読者の関心をひきつけるときにアクセスを一直線に増えるけれど、そうではないときに普通に読まれていく。ネット社会の間ではこうしたパフォーマンスの違いがしばしばコミュニケーションの齟齬を生じさせてきた。

 例えば、ブログへの書き込みを禁止するが、直接に投書のようなメイルがいつも届けられてくる。その延長でブログを機にして、なにか底意があると受け取られるようになる。こうしたコミュニケーションは一種の宿命なので、すべての意見を解消できると思わないほうがよい。むしろ、人との意見の違いから出発したほうが、かえって溝を埋める近道になるだろう。

 日本を伝える僕の中国語ブログ、独自のスタイルを試みたい。日常をもってなにかに置き換える。日本人にとっての日常性、日常を超えるものへの期待感は、もしかしたらどこかで宙吊りになっているかもしれない。

 ただ、それと関係なくこの時代に湧き出る日本人論には、予期せぬ確かな日常が加わる必要があるように思われるのである。
[PR]
by amaodq78 | 2007-08-10 16:20 | 文事清流