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講演の中にあって

   講演の場は、学生達の日常の場ではない。日常性から自分を見つめるために、多かれ少なかれ、この場で外へとつなげようとつとめる学生が多い。彼らのほとんどは講演会に非日常性を求めて集まる。勿論、つなぐ程度にもさまざまなものがあり、思考ひとつにしても、変わることができれば、これを達成できることがある。

  思考の誘発のしかたで、口人間、手人間、足人間という部類ができる。例えば、口人間とはしゃべりを始めるとよい考えが出る人間。講演の席はまさしく口人間の独壇場となる。

  しかし、実のところ、僕にとっては、立ってしゃべる方が手足が楽になり、円滑にしゃべれるのである。体を動かしていた人が自由な発想をうみやすい。

  写真は25日午後の講演風景。場所は名門の北京外国語大学、学生聴衆400名弱。 女子大生は、司会者(左)と企画者。2人は大学1回生と2回生だというから驚いた。
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by amaodq78 | 2006-11-27 06:59 | 文事清流

テクノロジーに傾く

 即時性と広域性が、ブログによる情報提供の特性である。中国でのブログの急速な普及により、利用者の年齢幅も広げている。阿毛博客のクリック承認数の伸びは著しく、開設当初と比べて10数倍となっている。

 しかし、ひとつ疑問が生じる。いったい日記帳のような私的な書込みを普通の一般人が読む必要があるのだろうか?昔の人間社会とくらべてこの地上が何百倍も複雑化したわけでもないのに、なぜ情報の共用だけが極端に拡大してきたのだろうか?

 僕が思うには、パソコンの使いやすさにその回答を求めるべきではないか?文字だけではなく、画像や音声、さらに動画映像も含めて、ヒューマン・インターフェイスとして使えば、今までの媒体ツールよりもはるかに使いやすいのではないか……

 今日も中国語ブログを更新していくつもりだ。
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by amaodq78 | 2006-11-20 08:49 | 文事清流

『泣きながら生きて』を見よ

 先月、都内の会食で番組の製作・友人の張麗玲さんに訊いてみたことがある。「番組の製作が終わったとき、どんな気持ちでした?」

 「これからもっと積極的に生きなければならないのか、そんな気持ちでしたよ」

 まあ、人が会話をするときには、かなり複雑な精神の働きがあり、話し手と聞き手が交替しながら進むことで、さらに複雑で微妙な反応を増やしていく。彼女と何気なくしゃべってみると、なぜか、そう思うようになる。無論、僕もそうだが、会話は相手の反応によって中途変更を余儀なくされるものであり、言い始めたときに考えた内容は、聞き手の顔つきや動きなどから中止するか、もっと強調するか、まったく別の方法に切り換えるかという判断を刻々に迫られてくるときもある。

 話が長いから、詳しく言わないけれど、美人の彼女は逆風の中でよく頑張ったと思う。なかなかの人物だ!

 ちなみに番組の主人公、15年間「不法滞在者」として日本でまじめに働き続けた丁尚彪さん、そして、彼の一家の壮絶な物語は見る価値が大いにある。 張麗玲さんが作った『小さな留学生』というドキュメンタリーについてあまり評価しなかったけれど、今回は違う。一時的な感動ではなく、見ているうちはそうだったかもしれないが、その後も心の底になにかが残っている気がする。魂の奥に鳴り続けているというような実感がするのも僕だけなのだろうか?

 丁さんとは、10年ほど前に一緒に飲んだこともあり、今はブログを通じて、時々連絡を取っている。芯の強い、不思議な男だ!

 『泣きながら生きて』


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by amaodq78 | 2006-11-13 18:23 | 文事清流

KobeBiennale2007

   言葉というものは、具体から抽象へと発達するものだと僕はかつて言ったが、それはそのまま思考の成長の過程でもある気がする。ただ、まったく同じ過程であれば、逆に抽象から具体へと進化していくと、それは芸術となり、言葉の乳離れと言ってもいい。

 どのような形にあっても、芸術はこのような形で育ち、言葉ではなく、思考そのものはそれとともに発展していく。ドイツ語が堪能な妻によれば、つかむという動作はドイツ語でgreifen という。無論、何か物をつかむというきわめて具体的な動きから、やがてBegriff という抽象名詞が生まれた。つまり、その意味は「概念」にあたる。手で物をつかむように、言葉ではなく頭で物事をつかむ、それこそが「概念」なのである。

 今日も2007年神戸ビエンナーレのために芸術家達と議論を重ねてきた。とにかく、何かをつかみたいという気持ちでいっぱいである。

    神戸ビエンナーレ実行委員会


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by amaodq78 | 2006-11-12 17:33 | 文事清流

中国作家協会の定例会議

 作家には大勢の者との出会いがたいせつである。そのためには場合によって服装はもとより、顔の表情から一挙手一投足にいたるまで、気をつけなければならない。

 どうやら中国の作家生活では、会議の持つ意味は大きくなっているらしい。会議といわぬまでも、大勢の人びとが集まり、その中の一人、或は数人の人が順次一定の形式をもって話を進め、そのほかの大勢の人びとはそれらの話を聞く側にあるという方式は、作家生活の相当部分を占める。

  ↓新会長の美人作家鉄凝氏と副会長の陳建功氏
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  ↓役員選出用の投票カード
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  ↓本年度一番の売れっ子作家余華氏と上海文芸出版社の社長。
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 正直に言うが、会議とは、社会という、われわれの目に見えない糸によって体と心を拘束する制度である。いわば、電車やバスの車内と同じような閉鎖的な空間に押し込められるような感じなのだ!

 先日の北京でそのような会議が盛大に開催され、新聞にも大きく報道された。作家の友人の多い僕にとって、紙面から皆さんを拝見することができるのも大きな楽しみだと言いたくなる。会議は愉快なものではないが、その多くは必要である。

 写真はすべで作家の陳村氏が会場で撮ったもので、彼とはつい最近上海で一緒に飲んでいた。写真に映った人もみな顔見知りなので、見ていてやはり楽しい。
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by amaodq78 | 2006-11-12 13:46 | 文事清流