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日本語をみつめたその瞬間

 ひとの記憶装置は一人一人違うのではないか、そんな気がする。一つの言語だけでものを書いていた時には、さほどそのことを強烈に感じることもなく、無感覚でさえあった。ひとが全く聞き取ることのできない言語に触れるとき、それは言葉ではなく雑音であり、嬰児が他の人間を見るのに似ている。人とそうでないものの区別さえつかない。しかし、絶えまない重複、倦まぬ反復によって、いつしか音声と情景が心の奥底に刻み込まれ、反射機能が形作られる。そうなって初めて人は外界の事物に多重的な意味を持たせることができるのだ。

 人と世界の間には心の緩衝があって初めて意義が生じる。より正確に言えば、まず人の想像、人の理解、人の納得があり、その後ようやく外部世界の印象が立ち上るのである。嬰児が大人よりよく泣く原因もほかではない、何もかも彼らがはじめて出会う事物と情景だからなのだ。ひとつの言葉は一方向の思考であり、言いかえれば人の表現にとってそれは一時的なものかもしれない。しかし、一時的な表現も繰り返しまったく違う組み合わせ方をされることによって、知らず知らずのうちに人を感化させてしまう。一時的に思われる言葉も、人間の感覚にとってはたんに一時的なものだともいえない。

 たとえば、私がはじめて山というものを見るとき、まず仰ぎ見る。その動作は実際には単語を外化する一種の形式である。「山」という言葉が話のなかに出るときにはいつも、それが高い山だろうと低い山だろうと、記憶の中には高いという概念が刻まれていく。今となっては、山という概念をいつ記憶したのかも覚えていない。そびえ立つ山に驚いたのはいつのことだろうか。
 しかし、このような素朴な疑問は二年近くずっと私の中にあり、おぼろげであるが答えへのヒントをつかんだような気がしていた。というのも、二つの言語を用いての執筆が私の一つの重要な仕事となってきたためである。一方向の思考を双方向へと視野を広げることによって、もともと自然に記憶していたものが、ねじられてくるのである。それは舵をきり、振り返り、絶え間なく記憶のなかの水門に衝撃を与えることであった。

 幸運にも、私が使っている日中二種類の文字は、形の上でどちらも突出した視覚的効果をもつ。とりわけ漢字の融和の中に、ある時は重なり合い、ある時は通りすぎた見知らぬ人のように、同じ形状が全く異なる内容を含んでいる。たとえば先程の「山」。中国語で「山」の発音は「SHAN」という一音節だが、日本語で発音すれば「YA」「MA」という二音節である。日本語を母国語としない人が口を開けてこれを発音すれば、しらずしらず唇の形は机の上で卵を転がしたかのようになってしまう。このような例は枚挙に暇がない。同じ漢字に異なる発音があり、同じ漢字に異なる意味がある。だから私は時々思う。日本人の唇の形は天性平たいのか?それとも中国人の唇の形が丸いのか?漢字は中国からきたが、一つひとつの音節は長い時間の大河のなかでずいぶんと失われた。そして今日日本人と我々は同じ漢字を使ってはいるが、中国人の聴覚からすれば、彼らの読音は間違いなく荒唐無稽である。

 ここに述べたような描写は、私が日本語がわからなかった段階に限られる。今の私の感じることは、すでにこれだけでは説明することができない。人の感覚は多角的で、たとえばあなたが長く醸成した思考を口に出したとしよう。それと同時に、口に出した言葉よりさらに多くの入り組んだ思考がひっそりと消失していく。消失は無念である。とくにすばらしい考えが浮かんだとき、口に出して言おうと思っても間に合わず、その考えは普段の生活用語に飲みこまれていく。

 もともと私は一つの言語で執筆し、一つの考えに一つの言語の出口しかもたず、日常思い考えるところはそれなりにまとまっていた。その後長年の異国での経験を経て、一つの言語からだんだんと二つの言語を使うようになった。それまでは一面鏡であったものが、二面鏡となったような具合であった。ある人は、一つの言語を掌握する過程は順を追って漸進する道のりだというが、私の考えは少し違う。少なくとも外国語で執筆することにおいては、私自身よくわからない。ある日突然二つの言語が混ざってしまったからだ。それもある深夜、夢の中の出来事だ。

 その日の昼間、私には表現したい強烈な欲求が起った。口は休むことなく日本語を喋り続け、それまで試したことのない書き言葉を操った。その時の私にしてみれば、いわゆる表現欲とは何かを表現するためではなく、一つの斬新な表現を生み出したいという衝動に近かった。話すことは一種の瞬間的な行為であり、唇の運動であって、発声された言葉の意味は具体的な環境のもとにあってはじめて成立する。これと反対に、書くことは思慮の過程であり、生動的な文字は思考の吐露である。まるで万馬奔騰のごとくやってきた考えを、内心の苦痛を経て一滴一滴射出する言語による印象である。

 その日の夢はだいたいこんな夢だった……巨大な天幕の上で二枚の透明な原稿用紙が翻っていた。天幕は端が見えないガラスのようであり、紙は刺繍細工のように繊細だった。顔を遮ったとしても分からないほどだろう。そのうち一枚の原稿用紙に書かれた文字は私の書いた日本語だ。もう一枚は私の中国語。二枚はまとわりついて離れず、しかし重なり合わない。近寄ったかとおもうと、翼を翻すように舞う。心を落ち着けてよく見てみると、二枚の原稿用紙は異なる色調、異なる模様を見せているようだった。

 日本語は流れる清らかな泉水、中国語は群山雲海のようだ。一枚は細やかで柔らかく、一つは粗放で果断である。私は落ち着いて観察し続けた。日本語のほうは文字の運びに緩急がある。漢字は仮名の海に浮かぶ小さな島のようで、もともとは漢字の部首だった仮名文字は、舞妓が飛び石を歩むようにして連なる。中国語のほうの紙は筆跡も濃く重々しい光彩を放っている。二枚の原稿用紙は、次第に近寄り、私の眼前で交差し始めて、目くるめく動きを示した。私はこのときはじめて二枚の原稿用紙の中に重複する漢字がいくつもあることを発見した。ひょっとするとこの重複した文字が、二枚の原稿用紙の距離を近づけている最終的な動力なのではないか?しばらくすると、これらの文字は突然跳ね上がった。そして、それらはそれぞれの原稿用紙からゆっくりと浮き上がり、空中でぶつかって、黒い固まりとなった……日常、印象、微笑、体験……同じ相貌の漢字が空気中で沸騰したようになった。このとき、どこからか現れた魔力によって私の体は震えが止まらなくなった。私は必死になって口を開け、空気中の沸き出した漢字を一つも漏らさずに咥えようとした。そして、温度はどんどん上がり、私の身体は熱くなり、涙が湧き出て、発狂した。

 この夢の最後の場面で、烈火のなかから必死でもがきはい出したことを今でも鮮明に覚えている。そして、それ以来、日本語は私にとって確実に神奇なものに変わった。慣れ親しんだ漢字が機械の上の鋳物のようで、ある時は私はそれらを溶かして仮名の中に注ぎ込む。反対に仮名を多用して薄くなりすぎた文章には、漢字を運んでくる。その漢字に日本語の標準的な読み方があるかどうかは構わない。日本の読者はそれらの漢字を見て辞書を引くだろうか。辞書を探しても見当たらずに困るだろうか。恨むだろうか。そんな憂慮はすべて、いったん日本語での執筆に入ってしまえば、自分が燕のごとく身軽になって、どうでもよくなってしまう。

 言語は檻であり籠である。しかし、同時に言語は、開放された広場でもある。特に新しい言語がある人の母国語に向かって挑戦を始め、その人の母国語と格闘しているとき、それはまさに新しい表現の契機が始まったことを意味する。もし、人の記憶装置がそれぞれ異なり、装置の定型が必ず言語に依存するのであれば、こんな推量も成立するかもしれない。少なくとも私においては、母国語の記憶装置は丸い。そして日本語のそれは四角い。四角いものには角がある。角があるならば磨き続けたい。

(『本の話』文藝春秋 2001年12月号)
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by amaodq78 | 2006-09-20 19:48 | 新聞雑誌掲載文

毛沢東の宗教観

 中国では昔からの伝聞がある。ぶくぶくに太っている男は、世間を魅了するという。勿論、傾国傾城の美貌を持つ唐代美人楊貴妃も、そのぽちゃぽちゃしている姿で後世に名声を残していたが、これは男の太さとまったく別次元のことに思われる。まず、太った男は身体だけではなく顔が丸いというイメージも連想される。三国誌の劉玄徳はその典型だった。次に、太った男と丸い顔は誰よりも仏様に近いと伝えられてきた。文化大革命の嵐が吹きはじめた頃、中国の指導者毛沢東は天安門に登り、広場を埋めた熱狂的な群衆を眺めた。その英姿はまるで仏様のようで慈愛溢れたものだったと日記に付けた中国人は決して少なくはなかった。

 ところで、そんな太った、顔も丸い毛沢東は宗教についてどう考えていたのか?長年、毛沢東思想の研究者でさえほとんど触れていないテーマだけに、最近、北京で出版された一冊の本は、内外から注目された。本の題名は「私の知っている毛沢東」(中国語原題「我所知道的毛沢東」中央文献出版社刊)、著者は毛氏の元秘書林克という人物だ。

 この本によれば、共産党政権が支配後間もなく、毛沢東は仏教史の専門書がないことに驚き、関係機関の責任者を呼びつけ大きな声で叱ったそうだ。知名度の高い学者達を集め仏教史を研究するように指示し、具体的にいつ頃までに本を出さなければならないのかを命じたという。

 仏教史に決して無関心ではなかった毛沢東が自ら起こした文化大革命で、あらゆる宗教に空前の弾圧を行なったのはなぜだろうか?身近な秘書にも、信仰を持つ宗教家が一番尊敬できると何回も言い残した毛沢東は、なぜ自分の意志に反して中国の宗教を無差別に破滅しようとしたのか?残念ながら、この本を読むかぎりでは明快な答えが出てこない。

 だが、毛沢東はいま、仏様のように拝まれている。都会のタクシーの車内に彼の肖像が飾られ、お守りのように見える。片田舎の農村では、彼を祀るお寺も現われはじめたとの噂も流れてくる。

 何だか毛沢東のお顔は、ますます丸く見えるような気がする。

(『仏教タイムス』連載・第7回)
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by amaodq78 | 2006-09-17 20:46 | 新聞雑誌掲載文

径山寺で食べた後

  中国の日本料理が“まずい”といったら不謹慎といわれそうだが、実感を明らかにすることは美食家の趣味になるはずなので、それなら“美味しく”でも不思議ではない。それが少しも美味しく思われていないのは、味覚うんぬんというよりはむしろ、食べる場所の問題であろう。
  径山寺にやってきて、今晩食べたのが無論、地元の料理であり、さっぱりしていて、美味しかった!

  料理を語る場合において、人間は、ひとりごとをつぶやくにはめぐまれた言葉をもっている。“美味しい”というものである。特定の肉や野菜に向かって語る言葉が思うほど豊富ではないのは、そういう語り口をすることが少ないからであろう。食べ物は人の舌に向かって語られるようなもの。はね返ってきた言葉がただ、“美味しい”というだけである。場所やその場にしかない雰囲気が伝わってこない。

  料理の話になると、思ったことがうまく言えない。話下手である。料理についての気心と雰囲気を伝えるために言葉をもっと磨くべきであり、宴会後の僕の感想としたい。

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by amaodq78 | 2006-09-14 21:32 | ノスタルジックな時間

罪という訳語の難しさ



  二年ほど前に、私は倉田百三の戯曲「出家とその弟子」を中国語に翻訳した。しかし、検閲の壁にぶつかり、出版はすんなりと実現できなかった。編集者とあれこれ協議を重ねるばかりだったが、仏教についての表現が極めてデリケートであることは、最近になってようやくわかった気がする。

というのも、この戯曲の完訳原稿を知人の舞台監督にこっそりと読んでもらった後、同年代の彼は深く感銘したようだった。私が中国でこの戯曲をぜひ舞台にしようと出版や演劇の関係筋に色々と根回しをしながら、日中間における表現の違いを切嗟琢磨する必要もあると言ってきたからだ。

  確かに、その通りだ。戯曲を翻訳しながらも、時々個別の表現に対して、このまま中国語に直すと、果たして皆はその真意を素直に受け止めることができるのだろうか?編集者と舞台監督の意見は、多少なりとも疑問をもつ私に、いっそう完訳の原稿を再度読み直そうとその気を起こさせてくれた。

  そこで、一番大きな隔たりを感じたキーワードは、ほかでもなく「罪」という言葉であった。わずか26才の若さで、この戯曲を書いた倉田百三は、破戒的な仏教形式や人間の悲しさと不安、そして恋愛や性欲、ニヒリズムもこられの問題が混淆したまま、率直に「罪」という一語で示されたわけで、これも青春文学にとって他に稀であろう。罪とは、単一な表現ではなく、自己形成の原動力でもあり、人間を大胆に厳しい現実に向かわせる源流と言ってよい。ところが、この多重な意味を含む表現を中国語の理解に置きかえれば、まったく正反対の解釈に曲げられることもある。

  中国では、罪の概念はまず階級闘争から生まれたものだ、あくまで敵対関係に立ってはじめてその表現自体が可能になったが、戯曲のように恋に落ちた男女(僧侶唯円と芸者楓)の間に罪を纏わる葛藤もあるなど、一般の中国人は不思議に思うはずだ。

敵であったのに、なぜ恋人同士になったのだろうか?極限に物の考え方を運ぶことしかできない中国語の「罪」と奥深い親鸞の教え、そして日本人青年倉田百三との間に、どれだけその距離を縮むことができるのか、今すぐ翻訳の原稿を読みながら、じっくり考えたいと思う。

  今年の夏は暑くなりそうだ!

(『仏教タイムス』連載・第64回)
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by amaodq78 | 2006-09-05 23:04 | 新聞雑誌掲載文

ある中国知識人の告白に寄せる思い

旧正月「春節」のある風景

  日本に長く暮らすものにとって、「春節」の一時帰国は格別な意味がある。単にお祭り気分で沸き立つというだけでなく、どこかで昔の記憶を蘇らせることができるからである。私の場合、中国を離れたのは13年も前のことで、それ以来、故郷北京で一家揃って春節の餃子を作ることなど一度もなかった。ミレニアムにあたる今年こそ、久しぶりに春節を北京で過ごそうと思いついたが、戻ってみると、私の記憶とはずいぶん違っていた。

  まず、昔のように大空に響き渡る爆竹の音が聞えてこない。第二環状線がメインストリートとなり、華やかなネオンが並んでいる。どこかで花火を打ち上げているらしく、音を伴わない光の線がさまざまに形を変えながら空に向かって射している。目抜き通り王府井南側の新築のビル群は、立ちはだかる鋼鉄の壁のように長安街に君臨している。かつての木造建築混じりの町並みは跡形なく消え去ってしまい、取り残されたような寂しさが幼心の記憶にとって変わりつつあった。昔は大晦日ともなると街全体が静まり返って、誰もが半日勤務を終えるといそいそと家路を急いだものだ。ところが今は、繁華街では大晦日にも店を開け、新年を外食で迎える客や家族連れへの呼込みが延々と続く。そして夜ともなれば、三里屯あたりの酒巴(バー)通りが週末のような賑わいを見せ始める。

  ある友人が「大年三十(大晦日)だからというわけじゃなくて、夜はいつも盛り上がるよ」と‘北京のいま’の案内役を買って出た。彼は私と違って大学卒業後、海外への留学を断わり北京に本社を置く英文紙「チャイナデイリー」に編集者として勤めるようになった。それ以来、海外から一時帰国する友人たちに北京を案内するのがこの上なく楽しいと言う。なぜなら、しばらくこの街を離れた人たちが、昔と変わった光景を見て目を丸くして感嘆を洩らす様子がたまらなく面白いのだそうだ。それほど北京の変貌が人を唖然とさせるものであることは認めるが、ただ外観のみを捉えて感心をするのもいささか単純にすぎるのではないか、と私は思った。

  「いやいや、なんの、人の心だって激変してるさ」と答えながら、彼は私をある場所に連れて行った。北京の東にある「滾石倶楽部(ロッククラブ)」。若い人の溜まり場だそうで、夜通し踊れて人との出会いも求められるというスポットである。ここのところ密かに話題を呼んでいるのが、時々姿を現す北京のパンクバンドの存在だそうだ。

  薄暗い階段を登りドアを開けると、突然大きなホールが目の前にあらわれた。炸裂する音楽に乗って、激しく身体を揺らす若い男女。その肉体から黒く光って流れ出る汗が私の視線を捉えていた。ステージで歌っている男は、モヒカン刈りで上半身は裸、頭のど真中を柵のように立てた立派な髪は金色に染めていた。ここは、春節のムードを鮮やかに演出した北京の街並みとは全く別世界で、熱気に包まれながら踊る男女は、大晦日や春節とは無関係に見えた。友人は言う。

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  「ここは、狂気が走ってるのさ。外の春節とはまったく関係ないよ、毎晩踊り狂って、男女が抱き合い、最後は叫びまくっているよ。まぁ、何にかの発散だろうね」

  私にはなんだか理解できない気がして彼に聞いてみた。

  「ところで、ステージで歌っている彼はいったい何を歌っているの?皆は大声で何を叫んでるわけ?」すると、彼は笑いながら答えてくれた。

  「もうすぐ歌詞カードがステージから投げられるから、それを読んだらきっとわかるよ」

  この時、床を踏み乱す皆の足元から熱気がますます上昇してきて、私の両眼に大波のように押し寄せてきた。人々がホールに響きわたる音響のリズムに乗って上へ上へと伸ばしていた腕は、一種の魔怪に化けたように、まるで旋盤工場のピストン連動装置みたいに上下に動き始めた。それを眺めながら、この光景がかつて私が北京で過ごした春節と、どれだけ異質のものなのかを実はまだあまり意識していなかった。そう、あの歌詞カードを手にするまでは……。やがて、ステージからばら撒かれた白いカードは大雪のように舞い、ひとひらが私の手にさまよってきた瞬間、思いがけない内容が私の眼に飛び込んできた。

  長時間の沈黙を通じて力を貯め込もうと試みる
  君は既に行動した……
  同志よ!君は訳の分からないまま政治の舞台をひた走る 
  君は道を作ってあいつらに告げる為に、
  短時間の凄まじいうなりを通じて経験の石碑を築こうと試みる
   “乗客の同志たちよ、十二号車が火事だ、十一号車の人、
   まもなく火が燃え移るよ!”
  諸君、俺たちは地下にいる、地下の部屋ではなく、通路にだ
  君は詩人ではない、君は政治が好きではない、俺もパンクじゃないし
  俺たちはただ第十三号車に乗っているさすらい人さ
                          パンクバンド「ノー」冤罪より

  ステージの歌声はこれを歌っていたのかと思いながらボーカルの男性に目をやる。彼はフロアを埋めた客の喚声ですでに興奮状態に陥り、頭が動きだしたばかりのモーターみたいにかなりのスピードで回転していた。こんなに若い彼らが、このような場で国の政治をからかったり、自らのメッセージを送ろうとすることは、60年代生まれの私にとって想像もしなかったことだ。彼らと同じ年齢の頃、われわれは毛沢東語録の暗誦や中国共産党への讃歌以外には、誰も反対意見を口にすることのないように従順に教育されてきた。それはまさにあの時代特有の、批判勢力は断固として封じ込めるという凄まじい圧力のせいだったのだろう。私のこのような感想を聞くと、同世代の彼はこう言った。

   「あの時代に比べたら、今の彼らは言いたい放題言えて幸せだよ。最近は妙なことに、彼らは有識者の代弁者のように、すごいことを言っている気がするよ。ほら、歌詞を見てみなよ。これなんかまるで例の李文章を書いた李慎之先生の気持ちそのものだよ」
 彼は右手で拾い上げた紙を私に見せながら、李文章とは、このごろ中国知識界に出回っているある未公開の文章だと説明してくれた。口惜しいことに、春節のこの「滾石倶楽部」で聞くまで、私は李文章なるものの存在を知らなかった。

李慎之先生

  私は日本に来る前に、北京の建国門にある中国社会科学院の哲学研究所に勤めていた。偶然にも、当時の副院長である李慎之先生と同じ宿舎区に住んでいた。宿舎区には、五棟の建物があって、五階建ての棟は一般の職員や助手研究員レベルの住宅として分配されたが、四階建ては知名度の高い学者達の住いになっていた。当時、李先生のご近所には、文学評論家の兪平伯教授や言語学者の呂叔湘教授、またドイツ文学者の馮至教授もおられた。近年来、ご近所の教授達は相次いでこの世を去り、李慎之先生は80才近くの老人になられた。今でも、はっきりと覚えているのが、李先生が毎日宿舎区(普通は大院と呼ばれるが)の受付兼管理員室まで歩いて夕刊を取りに行かれたことだ。ちょうど私が夕刊を取りに行く時間と同じ時刻なので、毎日のように李先生とお会いした。

  次第に、李先生は私の顔を覚えてくれて、時には雑談をしながら、その日の夕刊に面白い記事があるかどうかなどの情報も交換した。勿論、李先生から見た当時の私は、まだ研究所に来たばかりのひよっこに違いなかった。その頃、李先生は中国社会科学院のアメリカ研究所の所長も兼任し、中央政府の外交政策にも携わっていた。何かをしゃべりだすとすぐ興奮ぎみになるので、誰かが止めないと話が延々に続くようなことが二、三度あったように憶えている。当時は、中国の改革開放政策が打ち出されたばかりだったので、実際に議論の高ぶる時期だったのは確かである。李先生は今も、昔のように夕刊の時間に誰かと議論をするのだろうか?私はそう思いながら、久しぶりに宿舎区の受付部屋に行った。当番の管理員さんとしばらく話をしていると、そこへいつもどおり李先生はあらわれた。よれよれの外套を着て、手編みのショールを巻き付けていた。黒い皮靴はかなりくたびれて踵も擦り減っていたが、昔のようにゆったりとした足取であった。

  「毛君も実家に帰って春節を過ごすのかね?まぁ、北京の冬は相変わらず寒いけどね」
と言いながら元気そうな顔からは笑みがこぼれていた。

  李先生と新年の挨拶を交わし、雑談をしているうちに、私の頭に「滾石倶楽部」のことが浮かんだ。勿論、考慮すべき中国の政治情勢もあったので、ここで例の未公開文章のことを軽々しく話題にするつもりは毛頭なかったが、不思議とくつろいだ雰囲気が漂っていたので思い切ってご本人に訊ねてみることにした。

   「最近、李先生のご発言がずいぶん話題になったようですね」
   「ええ、それは今の中国に皆さんが関心を持っているからでしょうね。毛君は、老人の独り言としてあれを読んだらいいよ」

  先生の口ぶりはごく軽く、李先生本人の口からこのように聞かされると気持ちが幾分楽になった気がした。その夜、私はあの未公開文章をもらいに、李先生の自宅を訪ねていった。

  この時、室外の温度は、マイナス5度だった。
  
   国慶節の夜に、老人の独り言が続いていた

  李慎之先生がこの文章を書いたのは昨年の10月1日。中華人民共和国誕生50周年を祝う行事が北京天安門広場で盛大に行われたちょうどその日であった。誰に対して書いた訳でもなく、ただ自分の人生を回想するかのように、手に握った筆と共にその夜を過ごしていた。後にこの独り言を綴った文章を何人かの友達に見せたところ、その感動は皆のこころに響き渡った。それが、今年になって誰かの手でインターネットに書き込まれ、欧米のマスコミにも紹介され、一気に広く読まれるようになったのだろう。それはさておき、李先生は、あの寂しい夜に一体何を表現しようとしたのだろうか?それを見ることにしよう。

  「雄大でかつ威風堂々とした閲兵式、万歳を歓呼する群衆、歌や踊りを披露する文藝団員たち、大地に響き渡った礼砲の音……ありとあらゆる点において、すべては酷似している。けれども、ただひとつ違うのは、五十年前は実際に私があの観覧スタンドに立ち直接この眼で見たのだが、いまとなっては、テレビのブラウン管を通してしかその盛況ぶりを感じ取ることができなくなってしまったことだ。私はすでに高齢の老人で、身体にも障害が生じている。人前での立談や、自分の足で立って歩くことはできるのだが、あれほど長い距離を歩いたり、あれほど長時間立ったままでの観覧は、今の私には到底無理である。しかし、何よりも大きな違いは、私自身の気持であろう。この頭脳から生まれでる思想は五十年前に比べると、全くと言っていいぐらい変わったのである。

  ・・・・・・・・・(続き→『世界』2000年6月号岩波書店掲載)


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by amaodq78 | 2006-09-04 00:43 | 新聞雑誌掲載文

専修寺の朝

  日本には、海からほど近い場所にも多くの寺がある。ほのかに漂う磯の香りで海が近いとわかるのだ。前日に雨が降り、翌朝になって白い雲が残るような冬の日には、境内の木々の梢の鳥のさえずりもぐんと少なく、御影堂からの讀経の声がひときわ大きく感じられる。

  私がはじめて専修寺を訪れたときに目にしたのは、まさしくこのような情景だった。

  その旅で私の足が寺に向いたのは、いつもの好奇心からではなく、宿泊先の農家のおばあさんに引きつけられたからであった。そのときは不思議に感じられた彼女の日常生活は、後に日本人と接する機会が増えるにつれて理解できるようになったのだが、あの朝まで、私はごく普通の日本人の日常生活についてとりたてて深く考えたことさえなかった。

   専修寺は、三重県の一身町というところにある。今からおよそ五百年前に、親鸞上人の所縁で建てられた寺で、高田教団の歴代の上人が居住するようになり、本山となった。また、一身田は本山とともに発展した寺内町でもあった。寺の近くに学校がある。生徒の制服は、寺の壁のような灰色で、太陽の下では時折きらきらと輝くことがある。おばあさんの家は学校の裏にあり、農業のかたわら木造の下宿屋を営んでいた。田んぼや畑に囲まれ、夏になると蛙の鳴き声が絶えないという。真冬の今、その情景を想像すると、心なしか暖かくなるような気がした。

  私が「旅のものですが、この二、三日泊まらせてもらえますか?」と尋ねると、おばあさんは親切に角部屋に案内してくれた。そして共同トイレと風呂場の場所を教えてくれながら、こう説明した。

  『「ここにはね、出稼ぎに来ている北海道の人たちが来るの。北海道は冬寒くて、仕事にならないの。このあたりに土木の仕事をもらって、かんばっているんだ。人はいいけど、酒癖が悪いでね、飲み過ぎると大声で騒ぎ出すもの。まぁ、お兄ちゃん、気にしないでね』

  その夜、おばあさんの言うとおり、酒の匂いをプンプンさせて男たちは帰ってきた。匂いが廊下に充満しそうだった。そして彼らが長靴を脱ぎ捨てる音は、まるで隕石が落ちたかと思うほど、ドカンドカンと大きく響いた。彼らの昼間の苦労が重い疲労に変わっているんだろう、やがて始まった酒盛りの騒ぎを気にしつつ、私は早々と布団にもぐった。

 早朝、誰かが足早に廊下を通り過ぎる足音で目が覚めた。トイレにでも行こうとする北海道の男ではないかと思ったが、耳をすますとそれは下駄の音で、乱石に流れてゆく水のようにリズミカルだ。足音はなぜか急に私の部屋の前で一瞬止まった。おや、と思ったが、足音はまた響き始めた。不思議に思った私は、引き戸を開けてのぞいてみた。廊下を通りすぎたのはほかでもない、あのおばあさんではないか。彼女は、農家の人がよくかぶるような鍔広の帽子を被って、首にはタオルを巻き付け、専修寺のほうへ向かって歩いていた。

  おばあさんは念仏者のようだ。下駄の音は田んぼ道に消え、彼女の手首にのぞく数珠が光っていた。彼女の後について行こうかと思ったその時、廊下の向こうからまた、とことこと急ぐ足音が近づいてきた。今度は、下駄ではなく、陸上選手がゴム製の滑走レーンを踏み込んだような音。まさかと思ったが、それは夕べ酒を飲んで騒いでいた連中だった。彼らは、おばあさんの後ろを追うように、一陣のつむじ風のごとく遠ざかった。そして、彼らの腕にもまた数珠がみえた。

 私にとって、この朝の体験は神秘的だった。暗闇の中の幻覚よりも、むしろ曙光に照らされた彼らのきっぱりした足取りが神秘的に感じられたのだ。おばあさんと出稼ぎの男達は、専修寺に出かけていくときに何を思うのだろう。おそらくそれぞれ違う思いがあるだろう。しかし、仏に向かって念仏を唱えるその瞬間、彼らの間にきっと何らかの共感を得るに違いない。私は、それを想像しながら、急いで服を着た。彼らの後ろに続くつもりだったのだ。

 部屋を出て戸を閉めようとした時に、私は、足元に紫色の袱紗に乗せた数珠が置いてあることに気がついた。数珠は私になにかを語りかけてくるように見えた。きっとおばあさんがここで足を止めて置いてくれたに違いない。胸に熱い思いがこみあげてきた。私は数珠を握って急いで彼らの後を追った。

 田んぼ道に沿って歩いていくと、目の前に、昇り始めた太陽を背にした専修寺が現れた。朝焼けで大地は金色に染められていた。おばあさんと男達、そして四方から集まってくる人々は、寺に向かって、まるで赤い太陽の中に溶け込んで行くように歩いている……

 御影堂に入ると、外の光が急に遮られたようで、視界が一気に暗くなった。しばらくたって、ようやく暗い御影堂の内陣のあたりに、白い光が射し込んでいるのがわかった。堂内の欄間、蛙股、長押、鴨居・・・・そんなものが次々と私の目に迫ってくる。

 そんななかで、念仏者たちは、数珠を片手に一心に念仏を唱えている。その数珠は、よく見ると擦り切れている。念仏が終わると、みんなが外へ出ていき、私もあとに続いた。みんなは家にもどって着替えて、それから仕事に出掛けて行くのだろう------- 私はなんの疑いもなく、そう思っていた。ところが、おばあさんも男達も、その足でそのまま仕事場へ向かって行くのである。

  『そうか、この人たちにとって、念仏はなんら非日常なことではなかったのか。そう、その時、初めて私は気がついたのだが、その゛発見゛は、なにかすがすがしい思いへと私を誘うようだった。

  『文芸春秋』平成12年4月号巻頭随筆に全文掲載・毛丹青
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by amaodq78 | 2006-09-02 01:11 | 新聞雑誌掲載文