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講演旅行の後

  講演のために『日本と僕の日常』をタイトルに選んだのは……あらゆる話の詳細に含むのがこれしかないからだ。そう確信して、広州や北京と上海、大連と沈陽、そして洛陽まで走りまわって来た。

  講演はやはり、魅力的な仕立てのタイトルが必要なんだ。

  いまの日中関係は、決してばら色と呼べるものではないが、その中にあって、「等身大で相手を見る」という姿勢こそ、日中関係の構築を明るく照らす光である」と、今日の某紙コラムに書いてみた。

  等身大を中国語の辞書でひけば、勿論のこと、それが載っているはずがない。しかし、今日まで、僕はこの単語には仏教の意味もあるのではないかと考えていた。で、復旦大学の名物教授銭君は、仏教の教えに「等身観」という言い方で通っているというから、妙に納得する気がした。

  彼と上海ガーディンホテルで朝のコーヒーを読みながら、『週末画報』の取材を受けた。若手カメラマンの発想でけっこう面白い写真が撮られたと思う。

  銭君のことだが、大学時代からの僕の親友だ。天才とも言うべき人物。最近のファッション男性誌によれば、彼は専用車のベンツで大学出講に出かけ、週末にゴルフ、ブランド好きでルイヴィトン愛用、自宅は三階建ての古い洋館というが、それもまるで図書館のようなところで、書籍はぎっしりと詰まっているそうだ。授業の科目は梵文、ラティン語に仏教史。教室でいつも定員オーバーで、学生諸君は溢れ出している。伝説の男だ!今年は39歳、ドイツ語も日本語も英語も堪能、または梵文(=サンスクリット)など、稀少言語の研究もご専門。中国では、大学者として期待されている。

  それにしても、学者でありながら、派手な私生活も注目されているから、そういう意味に誤解される。されて自然だろう。

  後輩の銭君だが、彼の活躍に拍手を送りたい!
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by amaodq78 | 2006-08-30 10:03 | 文事清流

映画『活きる』の原作者余華さん

 彼とは、十年来の友人だ。

 いつもきびきびした文体で、はつらつとした生活感覚を描き、目線は外界ばかりではなく、内面に向かい、訴えかけるという傾向がある。『活きる』(後に張芸謀映画『活きる』にもなる)という小説から、孤独の底で自ら確かめるような文体で、抜け場のない苦しさと、時には楽しさ、ひいては滑稽さを描くという傾向が、次第に強くなってくるということが、新作の長編小説『兄弟』とたどってくれば、だいたい言えると思う。

 写真は京都来訪の余華さん、彼とずいぶんいろんなところをまわってきた。本日東京に行き、三日後北京に戻る予定。来月中旬頃から約一ヶ月間、今度はドイツに行くと言う。
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by amaodq78 | 2006-08-29 14:44 | 文事清流

中国人はクリントンがお好き?

  アメリカ合衆国大統領といえば自分を立志伝中の人物に仕立てることに熱心なものと相場が決まっており、退任前から(早い人になると就任時から)計画を練り、自分の業績を喧伝する。大衆もまた大統領の回想録で政治の内幕を知りたがるから、回想録は売れる。しかしジョンソンにしろアイゼンハワーにしろ、今までビル・クリントンほど自分自身をネタにした大統領はいなかったと言われ、またクリントンの『マイライフ』ほど中国のマスコミで騒がれた自伝もこれまでにない。

  この自伝の出版に先立ち中国メディアは、クリントンが自伝を「彼の将来の遺産の主要な部分」と考えていること、彼がロースクールを卒業した時から早くも自伝を書こうと考え始め、ホワイトハウス入りした後は毎週一、二日を執筆に充てたこと、執筆に行き詰まり「著作の監獄」に閉じこもるのは「囚人のような生活」だったと語っていることなどを報じた。

  『中国日報』のホームページは早々と今年一月から、自伝が今年発売されると予告し、出版の半月前には「クリントン自伝一五〇万冊のベストセラーに」と題して盛んに話題にした。『人民網』はそれに対抗するように、六月十九日付で、クリントンの生活と任期中に犯した誤りについて詳しく書かれていること、クリントン自らモニカ・ルインスキーとの関係を「プライベートで一番暗黒の出来事」と書いていることなど、自伝の内容を紹介した。また多くのメディアがクリントンの次の言葉を引用した。「大統領の回想録の多くはつまらなく、自分にとっていいことしか書いていないと言う人がいるが、私の本はまずおもしろくて、さらに自分を語れればよいと考えている」。自伝のなかで自分のスキャンダルをあえて公表していることを指しているが、これがブームを煽る大きなセールスポイントになった。

  六月二十二日に米国で自伝が発売されると、翌日の『新聞晩報』『羊城晩報』などの新聞は大きな文字で「クリントン自伝大あたり」「クリントン自伝、深夜発売、大ブームに」「クリントン自伝がブレイク、雨の中熱心な読者が徹夜で行列」などのセンセーショナルな見出しをつけた。そしてクリントンのサイン会での米国読者の「クリントンはビッグスター」「彼は我々の文化的アイドル」「彼に感謝している。楽しい八年間を過ごさせてくれたから」などの反応や、「クリントン、愛している!」と興奮して叫ぶ人までいた……と細かに報道した。

  そしてクリントン自身も、自伝の中国語版に並々ならぬ関心を持ち、中国の読者が完全な自伝を読めるよう、中国の出版社と契約を交わして米国側が訳文の正確さをチェックすることを約束した。これも中国では異例のことだ。

  自伝の具体的な内容紹介は、記事のタイトルからも分かるとおりクリントンの女性スキャンダルの部分に集中し、政治について触れた記事は少なかった。「クリントン自らルインスキーとのスキャンダルを語る」「クリントン自伝で情事を公開、ヒラリー怒って原稿を焼き捨てた」「クリントン自伝発売、スキャンダルのヒロインは今どこに」「クリントン百人以上の女性と浮気」「ルインスキー、クリントンのでたらめを激しく非難」「クリントン自伝読みどころ満載」などなど。クリントンの高額の報酬に強い興味を示す報道もあり、ずばり「ビジネスチャンスは無限」と題して、このブームが実は一種の商行為であることを暴露した記事もあった。

  注目すべきは七月十四日付の『北京晩報』の記事。すでに市場では、「譯林出版社」と書かれた『マイライフ――クリントン回想録』という粗製乱造の海賊版が出回っているが、これはヒラリー夫人の回想録からの抜粋を寄せ集めたもので、本物の自伝の中国語版がまだ発売されないうちから海賊版のほうが先に登場したという。まさに利潤の追求というほかなく、過度な煽りの結果といえよう。

  実際には、次々と繰り広げられるスキャンダル報道に対しては、中国の読者からも不満が出ている。ある新聞の署名記事は「クリントン回想録はもてはやす値打ちなし」と題してこう書いている。

  「まず、国内メディアがこの本を煽り立てたマイナスの影響は軽視できない。クリントンの回想録について騒ぎ立てたことは、国内でこの本をベストセラーに押し上げる効果をもつことは間違いなく、一種の無料広告である。そして、今後この本が高値で中国に上陸するための伏線になった。この本の内容と質には騒ぎ立てるべきものはない。クリントンは退任した普通の大統領の一人にすぎず、学者でもなければ作家でもなく、政治家としての生涯にも特別なところはない。人々が興味を持っているのは実習生のモニカ・ルインスキーとホワイトハウスのオフィスで浮気をしたスキャンダルだけではないだろうか。つまりこの本は学術的価値もなければ文学的価値もない」と手厳しい。

  一冊の本がマスコミによってこれほど騒ぎ立てられることについては、「このような現象は憂慮すべき」としており、この記事はすでに国営新華社通信のネットによっても発信されている。

  もちろん、この本に喝采を送る読者もいるが、どうやらその意図は別のところにあるようだ。「趙忠祥はクリントンではない」という記事は、中央電視台の有名アナウンサー・趙忠祥と、ある女性とのスキャンダルについて取り上げている。趙との間でトラブルが起こり、この女性が訴訟を起こした際に趙があくまで否定したことについて、「趙氏が女性のことを知らないと否認したことは一般人としての誠実さを欠いている。米国前大統領クリントンとルインスキーのスキャンダルが表沙汰になったとき、米国の大衆は彼をしつこく追い詰めた。これはスキャンダル自体のためではなく、彼が誠実さを欠いていたからだ。その後クリントンは勇気をもって謝罪したことで事件を切り抜けた。趙氏はクリントンに学ぶべきだ。このことでクリントンをおもしろく魅力あふれる人だと褒める人もいる。クリントンはある意味で中国の有名人たちの手本だ!」と書いた。

  日本でのクリントン自伝出版は、中国出版界の人々にとって大きな利点となるかもしれない。少なくとも私が上海で会った業界関係者は皆、口を揃えてそう言っていた。ただ、日本よりも中国の版元のほうが焦っている。彼らは、どれだけ利益を上げられるか、また「英雄は色に弱い」という昔からの考え方がまだ通用するのか、気になっているのだ。

  海賊版を出版するのは出版業界の人であることが多いと聞く。これは中国では公然の秘密となっている。しかしこれから出るクリントン自伝の中国語版は本物であることを祈りたい。そうでなければ、私は先に日本語版を読むしかないからだ。

(『一冊の本』朝日新聞社 2003年9月号)
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by amaodq78 | 2006-08-28 20:58 | 新聞雑誌掲載文

詩人芒克・ロック歌手崔健・デザイナー旺忘望・写真家爾冬強

   はしがき

   日本に長く住んでいる私には、自分の国に対する記憶はほとんど、10数年ほど前のまま停止していると思う。なぜなら、中国を離れるまえのイメージは、この十年以来の中国の社会変貌そのものとあまりにも噛み合わずにいたからである。物事が急激に変わろうとしている時には、それを受け止める人のこころの準備が必要となるだろう。ところが、現代中国に押し寄せた大きな波には、ゆっくりと考える時間さえもなく、どんどん呑み込まれるように身を託さなければならない時もあるような気がする。すくなくとも、私個人の体験として、この十年あまりの中国は、そうだったように感じる。建国50周年にあたる今年、天安門の修繕補強の工事や長安街沿いの広告看板の撤退作業などで多忙な街の風景は、まるでこの急変中の時代に乗り遅れないように国全体が躍動しているように見える。そこで、中国を表現してきた詩人や歌手、それに芸術家たちも、この繁忙な社会からどのような影響を受けているだろうか?日本から帰国した時、私は、できるだけ多くの人々と直接会って、お話を聞かせてもらうことにしている。そして、現代中国に生きる彼らの姿を通じて、ひとつの内なる風景がどこかに見えてきたような気がする。

   その一、「空間の虚構」を考える詩人芒克

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   芒克にとって、空間というものは恐らく表現しにくい内容だろう。というのが今年の春、北京に彼を訪ねたときの僕の印象だった。詩人としての芒克が中国で輝きはじめたのは、実に僕がまた高校生のときだった。そのころは彼にとって言語の覇権に対する苦闘の時代でもあった。彼の詩集「思い」を読んで深く感動したことを覚えている。その後、海外に脱出した詩人楊煉を通じて、何度か彼の動向を聞いていた。1997年10月『今日』が復刻出版されたのをきっかけに芒克は日本を訪問した。大阪での日本中国学会前夜祭に彼は詩の朗読を行ったが、日程が詰まっていたのか、大変お疲れだったようで、声もかなり枯れてしまっていた。その場で僕は彼と挨拶だけを交わし、それ以上、話をすることができなかった。後日「朝日新聞」や「すばる」等に取材文が掲載され、彼の現代中国を象徴するような詩人という地位がすでに不動のものになってきているのがそこから読みとれることができた。ここ数年、詩を書くことすらしていない芒克は日常の中に何を考えているだろうか?僕がこのような疑問を持つのは、中国の文化人にとって海外に出かけるということ自体が、彼らにとってある種の非日常ではないかと考えたからである。自分の知らないもうひとつの言語領域において、「私」の存在というものが思いがけず大きなものであることを見出して驚きを覚えた人は多い。芒克もその中のひとりだった。日本滞在について彼は率直に言った。

   「俺は驚いたよ。自分のことをたいした者じゃないと思っていたのに、人は俺のことを偉いぞと言ってくるんだよね。どう考えても、そんなことないと思いながら、しばらくしたら、俺の感覚も人の言う通りになっちゃうもんだね。東京にいった時、学者の取材を受けたことがあって、俺のことを、俺以上に相手はよく知っているんだ。結局、俺はあまりしゃべらなくても、相手はよく研究していて、よく準備もできていたね。カメラマンも俺の顔に向かって連発して写真を撮ったりして、何だか別の世界みたいだね。これは普通の俺じゃないような気がするけど、まぁ、これでこれを必要とするところもあるから。」

   「普通と言っても、違う解釈もあるだろうと思うけどね、」僕の話を聞くと、芒克は苦笑いながら、ゆっくりと答えた。

   「面倒な解釈はいらないよ。普通というものは、この俺の空間にあるんだ。壁、騒音、アパートに起動不能のエレベーター、そして詩人同士は昔のように集まったりしないのも普通なんだ。実業家の知人もいるが、彼らも元気がなくて、倒産寸前だ。この世の変動についていけないんだろうか?壁に向かって、空間を思うときがあるけど、俺には難しいね。収益がいいから小説を書くだけであって、詩を書く意欲が湧いてこないんだ。日本から帰ると、詩をあらためて書こうかと思うが、まぁ、書く意欲がほんとうに湧いてきたらね」

   何気なくしゃっべた芒克は僕にとって、わかりやすい人間だ。それと同時に詩の空間からは一歩離れた存在でもあったような気がする。彼の詩について大阪外大の是永駿教授は次のように評価した。(大修館『しにか』98.4.P72)

   「芒克の詩は生、愛、死を歌い上げる祝祭の世界というべきものであり、人間を最終的に支配する“時間”さえも包みこむ奥行きの深い気宇は迫力に満ちている。」
芒克の詩に、時間というモチーフがあるのは確かだが、空間に対して、彼はどう考えているだろうか。

   僕の質問を読み取ったかのように、「それは虚構なんだよ」と彼の回答は意外に明瞭だった。

   その二、ロック歌手・崔健とデザイナー旺忘望

   視覚の衝撃という言い方をはじめて耳にしたのが北京でグラフィック・デザイナーの旺忘望氏と会ったときだった。その日、崔健さんと僕は北京テレビ局のスタジオから離れ、旺さんの仕事場に向かっていた。深夜の静けさはまるで昼間の喧騒を洗い流したかのように、雑音であるはずのエンジンの音もリズムよく聞こえていた。崔健さんは運転をしながら、僕にしゃべった。
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   「外国から戻って、飛行機から降りるたびに何だかイライラするのね。数日たつと、もとに戻るけど、この感覚はいったい何なんだろう。よくわからん。」

   ミュージシャンの彼は、音に対してたいへん敏感になるから、飛行機を降りたらすぐイライラするとの説明も恐らく巨大な騒音にも関係があるのではないかと僕は思った。が、この話題は続かなかった。車の中に崔健さんの新譜<緩衝>が流れていく。数分後、旺さんの仕事場についた。旺さんはあの<紅旗下的蛋>の表紙デザイナーだ。

   そこで彼は何を表現しようとしているのだろうか。僕は挨拶の後に尋ねた。「表紙デザインは視覚への衝撃が必要なんだ」と答えながら、彼はMACのディスプレイに表紙を読み出し、口を開いた。「われわれには、文字というものが氾濫しすぎる。文字はあの時代、みな指令みたいな働きをして、単なる伝達の道具にしかすぎなかったと思うよ。あの時代って、個人というものもなければ、集団もなかったね。一人一人、みな国家の代弁者みたいに肉も血もないんだ」

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   たしかに60年代生まれの僕にとっては、文化大革命の最終時期に遭遇していた記憶はいまだに新しい。旺さんも崔健さんもよく似た経験を持っていた。個人の存在は暴走する社会に呑み込まれていき、体制の中の一部品として確立しなければならなかった。そして、僕たちは、あの時、赤い旗のために、革命のために忠実だったといまになって、やっとわかった。僕はこう考えながら、崔健さんの意見を求めた。「そうだ。でも、個人がないということはいまもたいして変わりがないよ。みんなはパスポートを持っているだろう。それは君個人を表わしているのじゃなくて、その国の人だという意味だね。俺は人としての人になりたいんだ。」

   崔健さんはしばらく、無言のままだった。旺さんもディスプレイに向かって座っている。僕は静かに考えた。

   あの時代は代弁者がいる。彼らは文化というものまでつくりあげていた。それは、指令のように社会の隅々まで何らかの思想を伝えながら、民衆の心をある特定の目標に向かわせた。革命であれ、何であれ、ある種のエネルギーの発散地になれば、社会は安泰になる。

   表紙を見つめる旺さんは、少し考えていたようだが、次の言葉を放った。
   「個人って何だ?俺は生命そのものだと思うよ。社会のために存在するんじゃない。命のために存在するんだ。俺は命を表現したいんだ。これからももっともっと表現したいね。」これを聞いて、崔健さんもうなずいた。

   帰りに、崔健さんは再び視覚のことについて僕に話しかけた。気がつくと、車外は濃い霧に包まれ、電信柱の光さえも見えなくなっていた。

   思わず、僕らは笑った。

   その三、実在の意味を問う写真家爾冬強氏

   漢源書店を経営しているのが上海在住の写真家爾冬強である。この書店は上海文化の景観とも言われ、以前から僕の耳に入っていた。所在地は紹興路なので、私の上海滞在中のホテルと近い。3月下旬に、日本から彼と連絡を取り、さっそく書店を訪ねてみた。

   店内には、古い家具などをならべ、ピアノ、本棚、ソファも年代を語れるような色で飾られ、バランスよく配置されていた。たしかに昔の上海を思い出させるような演出もされているように思ったが、北京生まれの僕にとって、新鮮さ以外の何ものでもなかった。

   「そうかね?」爾さんは笑いながら、僕を案内してくれた。上海出身の彼は、いまの町よりは以前の風景に興味を持っているようだ。それはなぜかと聞くと、彼は自分の作品集を取り出して、次のように説明した。

   「浦東が開放されるようになってから、上海は急速に変わった。むかしの建物は壊されていった。壊されたのは建物だけじゃないよ。人の思いや感情も一緒につぶされたと思う。これによって文化の資源が枯れてしまうことは違いがないんだ。町も冷たくなったいまの上海で、晩年を迎えるこれらの建物をみると何だかかわいそうな気がする。あの時代からいまの姿までに至るある種の哀れも存在しているから、それをカメラに収めて、何かを残そうとしたんだ。」

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   写真集「A LAST LOOK」は香港で出版され、欧米で飛ぶように売れたという。そして、彼は漢源書店を開業し、上海の文化人にゆっくりとできる場所を提供した。彼の写真には、教会や学校、そして体育館などの西洋風の建物が圧倒的に多い。上海の町に植民地の文化が浸透している側面があることはいまでも否定できない。爾さんの話は続いた。

   「文化と言っても、かならず形が残る。それは、空気の中まで拡散なんかしないよ。ただ、人の思想になり、あるいは観点や概念を形成するには素材として引用されるだろう。写真は実在を求める。素材でもいい、思想でもいい、現実にあるものを再現すればいいわけだ。」

   漢源書店にまた一人、お客さんが見えた。有名な映画監督だ。爾さんは「ヌンハウ」(上海語発音)と挨拶した後、僕に「この人は実在の意味を知っているから、毛君に紹介するよ」と言った。聞くところによれば、実在というものについては、上海文化人の間でひとつの議論にもなっているようだ。

   おわりに

   時代とは変化していくものである。一旦その変化のスピードが私たちの想像を超えてしまうと、ある一種の不均衡が生み出される。それは、とくに私の場合においては、故郷を離れている時間が長くなり、物事を見たり論じたりするとき、その環境の中からではなく、表面だけを見て全体的な印象を捉えるだけになってしまった。つい最近、私は北京作家の邵燕祥を訪ねた。私は彼に自分が現在感じているこれらのことを話した。彼は私の話を聞き終わると笑みをたたえこう答えた。「私は毎日外へでて買い物をする。街角で野菜を買えばその日の値段がわかり、人々の喜びや楽しみ、また悲しみを目の当たりにすることができる。これは外の世界にいては見ることができないものなんだ。住んでみて、生活してみて初めてわかるものなんだ。」

   これを聞いた私は慚愧の念を感じると同時に一種の確信を得たような気がした。それは、どんなに激動した時代であれ、現代中国の表現者たち、自分の分野で、そして一個人としての感性をもって、静かにこの国を見守っている。詩人、ロック歌手、またはデザイナー、写真家と作家、彼らはそれぞれ自分の足場をこの社会に置き、そこで社会に向けて発信を行い、または現実に対応するような自然体で生きている。彼らの生きるさまは、この私の眼に鮮烈に映っている。

   現代中国に生きる彼らには、内なる風景がある。それは、私のイメージした以前の中国と異なり、みずからの国家像を描き続けることであろう。私は帰国するたびに思う。激動する中国は、人々のこころのなかに静かに流れ、そして一個人としてのそれぞれの表現を通して、時代の動向を伝えている。
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by amaodq78 | 2006-08-28 00:49 | 現代中国の群像

文学は読むものである

  中国現代の文学について語るには先ず順序として社会主義の「今」である中国のことから始めるべきであろう。文学は人間の口述から数えても相当長い歴史があり、それからの新石器時代に漢字があったとする説に従えば、少なくとも何千年ばかり遡ることになる。順を追って、文学のことをたどるとなると大変なことになるが、中国文学の当面する問題あるいは、その将来について考える立場からすれば、それほど昔のことにこだわる必要はない。勿論、文学の現代とは、日頃頻繁に実感するようなものではないが、非母国語の世界からこの分野にやってくると、おそらくふたつの視野を持つことになるだろう。

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  ひとつは、先人によって転写され、あるいは蓄積された中国の文学、つまり縦としての伝統的な文学である。これは、もともと漢字文化ならではの入りくんだ書記法の所産であり、これに比べれば、文学そのものに関する限り、言語の遊戯に限りなく近いものである。但し、これは多様な解釈によって得られる情報の数々は、おのずから別の性格をもつかもしれない。もうひとつは、そういう文学の歴史を誇示するような記述をさだめることもなく、横から結びついていく、あるがままにうけとるほかない評論、つまり率直な感想である。

  日本と中国を含め、現代社会では映像としての文学がいつのまにか領土を耕しはじめ、あたかも知の秩序を再編制するかのように、インターネットによる伝達行為を駆動する原動機にもなった。それに伴い、マルチメディアの向上は著しい。伝統的な文学でさえ、いったんデジタル化されると、すぐにも注目され、文学そのものとそれを飾り付ける表象が容易に本末顛倒の状態におちいる。

  そんななか、最近1冊の本が面白い。萩野脩二著『天涼』(三恵社刊)である。この本の狙いは、たんに著者主宰のWebサイトの書込みを収集するだけではなく、書いた文には生命の燃焼が篭もっていると確信しているからと著者はいう。本のタイトルが「天涼」というのは、いささか現代風には見えないような印象を持つが、これは「はじめに」によれば、初出は中国南宋の詩人の作から引用したものである。さらに著者は続ける。「有限に生きる人の生命のはかなさを、日常的に思わせられるからこそ、天涼好個秋と唱え、生きる者とともに歩み続けるほかないと思います」

  確かにインターネットは、ほぼ例外無く情報氾濫のモデルとなり得る。と同時に、われわれが異文化や中国文学などといったテーマに向かい合うとき、インターネットにはさまざま無意味な内容やコピーの横行を解消することが求められている。このような記録の役割に対するどのような判断も著者の伝達願望と密接に関係しているとも言えよう。特に中国文学のいまを表現する場合、気取らずにとにかく書いてみるという気持がこの本の中によくあらわれている。誰でも気楽に発言しやすい実名を伏せての投稿は歓迎され、立派な活字になっている。

  勿論、パソコン通信やインターネットでは、年齢や性別といったデモグラフィックな属性を偽れるから、実社会で当たり前に成立するはずの人間関係が崩れる。他方では、確かに普通ならお互いに遠慮しがちな壁をブチ破って、率直な感想を述べるコミュニケーションを実現するという点がある。かつてなら、知らない者同士が何か議論する場合、人間を募ったり紹介しあったり、或いはどこかで顔を合わせたり、面会の日時を決めるために連絡を取ったりする必要があった。いわば、あれこれコストがかかり、その過程で他人に気づかれたり、抵抗にすら会ったりするかもしれない。ところが、インターネットにはそれがない。何のコストもかけずに、議論のためのサークルを作れる。要するに「摩擦の少ない」コミュニケーションなのだ。

  こうした摩擦の少なさに守られる形で、議論の土台が存続することが、本書の大きな特徴である。個人的には、インターネットの匿名性がそのまま書籍に写されるのは残念なことだと思うが、net×bookという著者の試みは、現代社会から淘汰されずに残るコミュニケーションについて深く考えることを強いている。

  さて、話は戻るが、ここで中国文学のいまを語れる場として本書を見てみよう。登場してくる小説はすべてではないが、いわゆる名作ではない。読み方によっては、こんな小説の、いったいどこが面白いかと思われるかもしれない。本書の構成は、書評とあらすじ、後はゲストブックからの転載がほとんどであり、それほど堅苦しく如何にも学術っぽいものではなく、かといって、「こんな感じ、これまで誰も書いていなかったなあ」と思えてくることでもない。それよりは、常識に縛られずに新しい道を探し、net×bookでしかできない実験を行ったという印象がどこかにある。著者は、そんな微妙な感覚を、Webサイトの主宰者としても、うまく言語化している。特に、中国現代、当代の文学のある雰囲気があって、参加者の誰かがそれを常におしゃべりする。あたかも北京の茶館で皆が親しくお話を楽しんでいるようである。

  中国現代の文学については、学術誌に掲載される論文で実によく勉強している。しかし、あまりにも多くのことを言おうとして全体のイメージが不鮮明になり、ときどき失敗している場合がある。勿論、表現の技術が未熟なためということもあるが、それだけではない。研究テーマに限っては、知っていること、調べたことをすべて伝えようとするのがいけないのである。表現というものを、われわれの持っているものをすべて出すことのように考えているとすれば、それこそ未熟なのかもしれない。表現とは、もともとすべてを出すことができないものであるから、一般的に省略的となる。

  この点では、本書のもうひとつの特徴を垣間見ることができる。それはWebサイトに書込みつづけた皆さんの文は省略的だということである。投稿が省略的になりうるも、えないも、相手次第であるが、共通の関心事を論ずる人達が大規模にそこに集うことを可能にするインターネット、そしてお互いに相手との通信状態を経て、気心の知れ合った仲間になっていく。時としては、人間の顔が見えない「霧」の中に読み、理解することばでも立派に通用する。要するにどんなに微細に書込んでもこのサイト以外の人間にとってみれば、わかりにくいところがないわけではない。つまり、対内的には「摩擦の少ない」コミュニケーションであっても、対外的には文脈の難解を部分的に果たしていることになる。

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  一説では、表現の省略を貫けるのは一定の範囲内である。そうだとすれば、日本にとって大きな文化の差をもっている中国現代の文学には、原則として理解されないまま省略される危険性すら存在するだろう。それを阻止するためにも本書のようにnet×bookという新たなアプローチが大いに評価すべきである。

  それは文学の世界にとどまらない。中国の政治問題を論ずるものがおしなべて、脅威論か崩壊論のような極論を特色とするのは、表現がそれなりの削り落としの原理によっているからである。

  文学は読むものである。中国の文学を読むとは解釈することなり、という考えは漢文の表現と親しむ歴史の長かった日本にとって、抵抗もなく受け入れられるものであったと想像されるだろう。そこから、新たな表現を求めたいことは本書の魅力であり、だからこそ、と言ってもよい。この本には、新しい「道」が拓かれている。

(『東方』2004年3月号)
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by amaodq78 | 2006-08-27 01:08 | 新聞雑誌掲載文

桜の樹の下で

 松田先生は獣医で、東京できれいな動物病院を構えている。遠くからは積み木を積み上げたように見える建物では童話のような色彩で、オレンジ色の壁の間に通路がある。通路はピンク色で、陽射しの無いときでも明るく、ときには眩く感じることもあるほどだ。

 通路沿いの階段があり、足元の床板はキシキシ音をたてる。おかしなことに、前に松田先生を訪ねたときに、ちょうど梅雨時で、普通のアスファルトの道を歩いているときには、細い雨が地面に落ちる瞬間に空気中の雨が振る音がかすかに聞こえるくらいだった。しかし、松田先生の診察室の階段を昇るときには、足元の音が変化し、雨音がもともとの階段のあの乾いた音から変わり、この季節には木の階段はは雨水と顔を合わせないようだ。

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 毎回少し気にかかっていたのだが、松田先生は「それはうちの猫がやってるんだよ。このあたりで何時間遊んでいていれば、雨が降ったとしても、びっしょり地面が濡れることはないんだ。木の乾いた音はしないし、その熱気が木の板を全部乾かしてしまっているみたいだ」

 猫が主人を驚嘆させるのはよいことで、特に猫にしてみれば、主人が自分に驚嘆するのは、悦に入るところから最後には崇拝しているか定かではなく、称賛には足らない。松田先生に至っては、彼は私が猫に興味をもっているのを知っているので、何げなく私に話をするのだが、その様子から、猫がまさしく命で、彼がぼーっとしている猫を偏愛ししていることが伺える。しかし、時には彼はさほど熱心ではなく、ひどいときには黙りこくってしまう。これはもしかすると松田先生が私が彼の言うすべての意味を理解していないと心配してのことかもしれない。

 何故かというと、もうずいぶん前に、私が中国の一部の地域では猫の肉を食べると話したことがあるからだ。猫の肉を食べることについては、私は日本人がクジラを食べるのと同じように、食文化の違いに他ならないと思っていた。この他に、さらに深い意味など説明できないと思っていた。松田先生は従来この問題について人と話したことはない。

 彼の視線はただ猫に注がれいているのだ。一人の獣医師として、猫を見ることは彼の職業であり、当然さらに猫を見るのが好きなのは彼の興味といえるだろう。彼が獣医になったのは、ある夜見た光景によるものだそうだ。当時彼はまだ少年で、家からそう遠くないところに動物病院があった。ある夜、彼が放課後家に帰ると、一匹の黒猫が力なくうずくまっていた。しかし、黒猫は懸命に動物病院の方角に移動していた。

 その背後に何か真っ黒な塊があったが、それが何なのかはっきり見えない。黒猫は大声で鳴き、身を引きずり前に這った。まもなく、門から女性の獣医がでてきて-正確には彼女は助手だったが-。彼女は「黒猫ちゃん、どうしたの?」とブツブツいいながら、黒猫の後ろを見渡した。黒猫が鳴いたのは自分の為ではなく、後ろの真っ黒なもののためだったのだ。それも一匹の猫で、深い傷をおっていた。黒猫は病院の階段のそばでずっと激しく叫んでいた。助手さんは黒猫を抱きあげた途端、びっくりして声が出なかった。その黒猫が連れてきた傷を負った猫は、何者かによって後ろ足が切断されていたからだ。

 松田先生はこのことを話すとき、今でも激怒する。更に言えば、彼の目はかすかに赤く、毎回涙が流れおちるとき、こう言う。

 「その日、桜の花びらが舞っていたんだよ」
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by amaodq78 | 2006-08-25 22:15 | 黒猫の隣歩き

『歎異抄』を中国語に訳して

  『歎異抄』との出会い

  『歎異抄』を初めて読んだのが日本にきてから2年目のことでした。1988年の春頃だと記憶していますが、その当時、また留学生の身分を持つ私は、津市に下宿していました。高田本山の専修寺まで自転車に乗って5分程行ける距離なので、三重大学の受講があるたびに、わざとお寺をぐるっとまわっていきました。最初は、下宿先の大家さんが毎朝お寺参りに行くのを見て、ついて見に行くつもりでしたが、本堂の正面玄関ではじめて拝見した親鸞上人のお顔は、私にとって非常に驚きでした。


  輪郭ガッチリしたお顔には、一種の何とも言えないような狂気を放出するかのようにも見えますが、伝統中国で拝まれるぼっちゃとした仏様のお顔とあまりにも似ていないのではありませんか。私にとって、まったく新しい日本人像そのものと、ごく日常的な生活の中に遭遇したとも言えるかもしれません。それを機に、専修寺の親鸞像をいつも思い浮かべながら、歎異抄を読むようになりました。

  日本人の心を探る

  私にとって、歎異抄の大きな意味がその大衆、いわば庶民の実践性にあることです。鎌倉時代は日本史上にも非常に珍しい、戦乱の時でした。特にその前の平安朝中期から、政界において藤原氏一族の勢力によって独占されたわけですが、ほかの出世道と言えば仏教界だけじゃないかと思われます。そこで、あの有名な比叡山に優秀な人が集まり、まるで立身出世の機関のようになったのです。それは、実に最高学府とも言えますが、天下の秀才がここを目指して集まってきたのです。

  親鸞の生涯の師であった法然は、十三才で比叡山に入りました。後に「智恵第一の法然房」と言われたようです。その当時、仏教は進級するための受験科目みたいなものですが、はげしい受験競争があったに違いがありません。結局、経典や語釈をどれだけ憶えているのかのテストだけとなりました。学問盛んになったとしても、仏教本来の目的から隔たることにつながってしまいます。

  これに対して、日本仏教界の革命家と言うべき法然は、口誦念仏に要領を絞り込んで、専修念仏の教えを導入しました。これは、いままでの瞑想やもろもろの行を通すことではなく、ひたすら南無阿弥陀仏と口に出して唱えること自体が念仏の真理とします。従来の浄土宗は宗教作法に基つく自力修業の所謂聖道門的な煩雑の手順を重視してきましたが、そのため素朴に極楽を憧れ求める一般大衆が結果的に極楽から拒否されることになります。こう言った立場から見ると、専修念仏と言うのが、大衆を解放するものとなったのです。

  法然はこの根拠を中国の名僧善導大師の「観経疏」の要旨を借りて裏付け、権威づけたそうです。親鸞も九才から二十年間若き日を比叡山に過ごしましたが、当初堂僧としてあらゆる戒律を守り、修業を積み、仏のこころを感得しようと努力をしました。ところが、まわりの特権臭や偽善性、保守的無気力さなどを感じて、真剣に考えれば考えるほど悩みが深くなったのです。彼は二十年代特有の懐疑、抵抗、批判の精神があったので、それより自分の体から涌き出る戒律に耐え仕切れない欲望を抑えようと思っても、抑えられないと言った反動力が相当大きかったのです。懸命に断ち切ろうとしても、断ち切ることのできない煩悩のために苦しんでいました。

  悲しいきかな、愚禿鸞、愛欲の広海に沈没し、名利の太山に迷惑す  (「教行信証」信卷)

  汚れた現実の中で、理想追求の意思とおのれの欲望とのギャップを感じたのです。自分はこのままでは往生できないじゃないかとおのれの生き方に疑問を問いかけました。結局、比叡山を去ることを決意、その後生き方を自得するため、京都の吉水の六角堂で百日参籠の行に入りました。六角堂の本尊は救世観音で、しかも聖徳太子の化身だとされています。昔から聖徳太子を日本仏教の初心、原点として讃仰していたらしい親鸞は仏教を百八十度転換で改革の手掛りをこの百日参籠中に掴みたかったのです。つまり、仏教は特権階級に占有されてはいけない、悩める一般大衆の救済に唱え台として、すべての人間が阿弥陀仏の本願を信じれば救われます。そのため、阿弥陀仏という名を繰り返しとなえます。自分のはからいを捨てよ、愚かなる人に帰れ、(自力の行を捨てて本願に帰す。「教行信証」より)ということです。

  念仏だけで極楽浄土へ往生の約束が得られると、ますます庶民の人気は高くなった。本願に帰すということは、まず自分の意思で極楽を求めることを否定しなければなりません。この否定から出発して、他力の信心を阿弥陀仏からいただきます。否定というのは、そもそもマイナスのことではありますが、自分の力で人間の持つ煩悩を断ち切ることは不可能であることに気づきます。これはむなしい一種の絶望に思えますが、そこに如来の本願によって、煩悩のみのままにすくわれるという他力の救いに託されることになるのです。簡単に言うと、否中有信とのことです。

  マイナス思考を重視

  私は、日本で高校生に英語を教えたことがあり、いまでも、その時のことをおぼえています。高校生に英語の質問票を渡します。その質問のタイトルは、share with your dreamと言ったものです。「貴方の夢を共にしよう」という意味です。その中でrespectable futureとunrespectable futureと二つの希望項目を書いてあります。つまり、未来がある夢と未来がない夢とのことです。高校生に自分の思うとおり回答してもらいました。医者、科学者、大学教授などの明るく未来いっぱいの夢を書いた学生がわずか4人ぐらいで、大半の7人も自分の夢を退学、交通事故、解雇、刑罰などに記入したのです。

  私は驚きました。彼らはなぜそう書いたのかと聞くと、その答えは非常に明瞭で、こう書いておくことで気持ちが楽になるからだというのです。自分の未来に悩むことなく、煩悩を打ち切った精神で、人間存在の底、否定面から発想したわけです。こうした例を踏まえて、日本人の庶民像を捉えるのではないかと考えました。

  極限状態からの新生、或いは再起といったものは、中国人にとっては、ひとつの悲情的な感覚を与えるかもしれません。私は小、中学校の時代がちょうど、いまの改革開放の直前、世界に窓を開けようとする以前にあたりますが、その当時、私達の夢といえば、国から与えられた職業、もしくは勉強の任務を全力尽すことでした。「人民のネジになろう」という言葉が流行しており、多くの青少年が国と自己を同一視していました。国家の発展は個々人々の夢であったのです。思えば、私が日本で教えていた高校生達とは著しく異なっています。そこには、政策の違いだけではなく、日本人と中国人との宗教観の相違が秘められていると思われてなりません。

  古代仏教の否定

  「歎異抄」には、反の立場から、つまりマイナスより正とプラスのことを思考する傾向があると考えられます。否をいうのが、重要なことになりますが、これは中国人にとってたいへん理解しにくいかもしれません。

  善人なをもて往生とぐ、いわや悪人をや(「歎異抄」第三章)

  これは悪人正機と言いますが、従来危険物、毒などと批判されています。この主張は、人間的反省を伴なわない時に確かに悪事を働くのです。「本願ぼこり」というのもそうだと思います。

  善と悪は古くからのテーマです。古代ギリシャの哲人アリストテレスは、すべて人生の目的を実現する助けとなるものは善行であり、そうでないものは悪行であると考えたのです。近代の哲学者ニーチュは、人の意志が善悪の唯一の基準であると言っています。

  ところで、「歎異抄」が提出している悪人正機の悪人とは必ずしも悪い人をさすわけではありません。それはひとつの抽象概念で、広く漁業や狩猟に従事し、殺生をもって生業とする一般の人々を指します。まだ仏門にまだ入っておらず、生活の上で欲望の支配を受けている意識状態であると理解してもよいのですが、たとえ万人の認める罪人であっても、自らの悪に気づき深く後悔し、如来の真実によって救われると説きました。それがいわゆる正機そのものです。こうして往生を遂げます。世の中には、善人と悪人の区別が存在します。善人の成仏は言うまでもないのですが、世の中をよく変えるには、悪人を善に向かわせることのほうがより大切です。

  中国で東郭先生の古話があります。いつか自分は悪人になるのではないかと毎日怯えながら暮らしている老先生がいました。その人は、外にでると蟻一匹も踏まないように細心の注意を払いながら歩く始末です。悪事に対する戒めを説いた話ですが、このような悪への恐怖感とは異なり、「歎異抄」では積極的な優導により、悪を捨てさせ善に従わせようと働きかけます。なぜなら、阿弥陀仏の本願は優先的に悪人を救うことにあるからです。言い換えますと、他力に頼る悪人は、自力に頼る善人よりも阿弥陀仏の救いとなり得るのだ、ということです。一般の宗教論が善の宣揚に重点を置いていますが、「歎異抄」では悪の放棄に一番の重きを置いているのです。

  勿論、鎌倉仏教の開祖達に共通なところがあります。それは古代仏教を否定した思想にあります。中でも親鸞の悪人正機というのが、もっとも厳しく古代仏教を否定したわけです。この流れを歴史の視野で研究した結果がたくさんありますが、ひとつはっきりとしているのは、いままで経典や語釈を主流にし、諸寺院が僧兵をかまえ、派閥争いの場所にもなっている仏教は、その本来の目的から離れつつあります。平安時代初期に完成された律令体制も勃興している武士の力によって崩壊の危機を迎えていたのです。こういう時代においては、宗教はもっとも簡単にしかも真実の仏になりうると思われる道を選びました。法然、親鸞の念仏はその時代の要請に応じました。これは、庶民にとってたいへん実践性に富んた教えです。だから、日本人社会にどこかでこのような信仰による物事の考え方が根強く残っていると思います。

  善悪の二極性に陥りやすい中国人

  そこで、私自身の体験から見ますと、中国に一般民衆が受け入れた教えは敵を如何に恨む、そして友を如何に愛するという内容が圧倒的に多い。私は北京生まれ育ちですが、同じ街の子供達は、両親とよく映画を見に行きます。見た後、子供が必ず両親に聞く。いまの映画に悪い人が誰ですか?それを知ったら、また学校の先生に言うのです。さらに同じグラスの子がだれかその映画の悪人ととても似ていると言われたら、まわりの子供に相手にされなくなります。なぜなら、その子は悪い人ですから。これを例にしますと、やはり物事を運営するには、たいへん極端に行き易いのです。子供社会だけではなく、大人でも同じ傾向があるのではないかと思います。私の知っている中国の作家がいます。最近、次の小説を書きました。喧嘩の絶えない夫婦が真剣に離婚を考えるようになり、妻が実家の母親に相談を持ちかけると、母は悪いのは一体どちらの方かと尋ねます。「悪いのはどちらでもない」と答える娘。すると母親は、突然無口になり背を向けてしまいます。母親は戸惑ってしまい、娘に何の助言も与えられません。なぜなら、善悪を明確に線引きするいままでの価値観がくずれてしまったためです。こうした八方塞がりの状態は、まさに現在のわが中国社会と同じといえるでしょう。

  苦難こそ信仰の原点

  「歎異抄」の著者はかつて親鸞の教え子だった唯円ですが、彼はこの本を書き始めたのが三十九歳か、四十歳くらいです。中国の古い言葉に「三十歳で自立、四十歳で惑わず」と言われていますが、人間は四十歳まで迷うもののようです。言い換えれば、四十歳という不惑の年齢は、成熟した年代とも言えるでしょう。

  その唯円は、親鸞が死んで、二、三十年後、自分の想起した師匠(親鸞)の言葉を書き込んだわけです。それは「歎異抄」という題が示すように異を歎いたというものでした。唯円の時代に親鸞の教えはひろく布教されましたが、同時に、誤解されたり、歪曲されたりしたこともたびたびありました。こうした世間の異を歎き、信仰を師が唱えたような元の姿に戻そうという強い願いによってこの書物は綴られています。それは、熱烈果敢ともいえる親鸞の一言一句から浮かび上がっています。

  念仏者は無碍の一道なり (「歎異抄」第七章)

  私は「歎異抄」を読むたびに、その実践性に基づく信仰の熱気に打たれ、いつも生命の尊さを実感させられます。

  親鸞は人間の力に絶望していまず。それは不惑の年でたいへんな苦労の重ねた月日を過ごしたことにも原因があるでしょう。三十五歳で念仏停止になり、越後へ流罪、先輩たちが受刑された。親鸞自身も配流の罰によって、還俗させたれ、藤井善信という名前をもらいます。戒律持たずに肉食妻帯し、すべての迷いを仏の海に流す。阿弥陀仏を信じた彼は究極の境地に立っていたのです。この苦難を信仰の原点とし、自分の不惑を固めました。

  親鸞の反骨の精神

「歎異抄」の最後一つの付録がついています。私はそれを訳す時に悩みました。というのも、実はその最後の言葉は皆完璧の漢語でした。

  親鸞改僧儀賜俗名、仍非僧非俗、然間以禿字為姓被計奏聞了。

  俗名を賜ったということは、親鸞にとって恥辱であったことに違いがありません。彼は権力によって僧でないと宣告されました。しかし、彼は権力に屈することなく俗人とはほど遠い人生を貫きました。俗とは決別せんと「非俗」宣言をしたのです。そして彼は禿の字をもって姓となすことをお上に伝えたのでした。僧侶ではない、俗人でもない。これは、お上に対する強烈な反動です。そうした親鸞の反骨的な人柄が、上の一行の漢語から窺われます。

  「歎異抄」全体は片仮名と漢字で構成されています。序言の部分には、漢語の文章がありますが、それ以外では上の文章だけです。突然このような漢字一行が現われてきたのですから、翻訳者にとってはその意外性にかなり戸惑いを覚えました。しかし同時に、この結語には大きな意味があるに違いないと直感し、強く惹かれたのも事実です。

  私はこの漢語をそのまま引用するのではなく、現代中国人にも理解できるよう、そのニュアンスを味得しながら訳してみました。その時の意外性、翻訳の際に生じてきた迫力をいまでもはっきりと覚えています。これは、私が惑わずに直接に親鸞の情念を感じ取った瞬間であるのかもしれません。

  1999年6月18日 第78回顕真館公開講演会 龍谷大学 京都
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by amaodq78 | 2006-08-23 13:00 | 新聞雑誌掲載文

ブッダと結婚

  文学界に新風を送り込んだ『上海ベイビー』 から数年、あの美人作家・衛慧が帰ってきた。衛慧といえば、女優顔負けの美貌、文学の修業で培った冷徹な人間観察力を持ち、英語から宗教、ファッションまで幅広く学びながら、なぜかエリートコースをドロップアウト。『上海ベイビー』の発禁処分により、しばらくは言論の自由さえ奪われてしまう。だが、上海での退屈な毎日に嫌気がさした彼女がアメリカに渡ったことで、再び世間を騒がす著述に関わっていくことになる。

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  彼女の新しい小説『ブッダと結婚』(泉京鹿訳、講談社2005年5月刊行)は、その死生観も『上海ベイビー』とは全く異なる。ヒロインの恋の相手が日本人男性だということもあり、自然に触れて心安らぐというような日本人らしい心のあり方も描かれている。生と死にまつわる感性についてはいえば、なるほど彼女の感性は強靭かもしれないが、あえて言えば、日本仏教のような繊細さや柔軟さには欠けている。日本仏教の教えでは、木の葉一枚落ちただけでもそこに生と死の営みを見出すが、そういう感性に本書は縁が薄い。

  しかし、ブッダといえば、実に深刻な悩みを抱えつつ死を迎えているのであり、けっして立派な死に方をしているわけでもない。『ブッダと結婚』をこのように考えながら一気に読み終えると、ある種の充足感に包まれた気がする。私自身がブッダのいる世界、ブッダのいる生活を知っているからこそ、そう思うのかもしれない。


  日常の生活に追われていると、人間はどうしても慣れと甘えで感覚が鈍化してくる。だからこそ、上海という物欲の渦巻く大都会で青春を過ごした女性が一人の日本人男性を真っ向からみつめ、そして懸命に生きつづけた。そこのあたりが実に心に迫ってくる。粗筋は言わないが、ここから著者が本書にかける並々ならぬ決意を見て取ることができるはずだ。過去、ブッダについて書かれた中国の書物は数多い。例えば、仏教の伝達地として歴史上有名な白馬寺の利権をめぐって恋愛事件が起こるというような小説があるとしよう。

  しかし、読者はそんな物語は現実に存在しないとわかっているから、どこか冷めた意識で読む。『ブッタと結婚』はこのような作品とは一線を画している。最後まで読めば、いまの中国人女性のアイデンティティについてもすべて知ることになるかもしれない。

(『仏教タイムス』連載・第84回)
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by amaodq78 | 2006-08-22 22:09 | 新聞雑誌掲載文

雨後の筍

  ファッションモデルという職業は中国にとって、まったくの新しいものである。人民服一色の時代もそれほど遠い昔ではない。国の開放はまるで一夜に目覚めた時に、両眼に飛び込んできた光景であり、頭で理解もせず、街中の服装は日に日に変わっていく。こう言ってくれたのが、90年代の初期に世界を驚かせたモデル陳小姐だった。確かに、旧知の彼女と偶然にも北京の国際空港で会った時のことだが、私より身長高い彼女に、その清潔感のあるエキゾチックな容貌でまわりから多くの視線が注がれていた。

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  「これにはもう慣れたわ。みんなは、昔ならもっとジロジロ見てくれたけど、いまは、空港なんか行くと、モデルの女の子に会えることもちっとも珍しくないわ」

  「ということは、彼女達はいつも海外か、或いはほかの地方に頻繁に行くようになったっていうことかね?」私は陳さんに聞いてみた。

  「そうね。最初は上海から流行り出したの。それと、外資系アバレル業者も中国に進出してきたおかげでもあるわ。私が日系会社のファッションモデルオーディションの審査委員に勤めたのがいまから5、6年ほど前だったわ。その後になると、ほんとうに雨後の筍のように競って各社が中国人のモデルを発掘しはじめた。」

  確かに、日本では、モデルを夢見た女の子も、いろんなオーディションに挑戦しなければならないが、社会もそれなりの環境を整えていることも容易に理解できる。中国のいま、開放してから十年あまり、はたして華やかなデビューを目指す女の子にとって、たくさんの可能性が潜むと言ってもいいだろうか?

  「それは貴方、国から長いこと離れているからわからないかもしれないけど、いまはもう、毎日のようにどこかの会場で審査が行なわれているのよ。上海や北京のような大都会だけではない、小さな街でも繊維関係の商談会を開くたびに、人々は群になって、ファッションショーを楽しんでいる。それが無ければ、お客もこなくなるという恐れすらあるのよ。」

  陳小姐は92年のパリコレに出演し、その東洋神秘に包まれながらの身姿で高い評価を受けた。翌年、同じくパリでプロのファッションモデルとして活動開始。

  「海外よりはやはり、国内にチャンスが多いね」こう言いきった陳さんは、いま、モデル業をやめて、自分の会社を持つようになった。中国人モデルのプロモーションのかたわら、中国最大級のモデル育成学校もオープンさせた。そんな彼女は、いつも数珠を腕に巻き、時間がある時にかならず、北京市内のお寺にまいるという。

  「貴方はいま何を一番信じますか」と聞くと、彼女は真剣な顔でこう答えてくれた。「こころの中の仏さまよ、特に事業はうまく行かないときね」

(『仏教タイムス』連載・第29回)
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by amaodq78 | 2006-08-19 23:37 | 新聞雑誌掲載文

カラスよ、その色が見える?

   国道2号線の南側にある阪神電鉄の芦屋駅から海岸にむかっての緩やかな傾斜地に、長さ十数キロメートル近くにも及ぶ細い川が延びている。河沿いに道路の端から南方を眺めると、左右の建物にはさまれて彼方に海が見え、その上に空がある。

   道は古びた灰色の敷石で幅いっぱいに舗装され、それが自動車道になっている。

   今から数年ほど前だったと思うが、そのあたりの立派な和風の屋敷にイギリスからやってきたキリスト教の修道会が入居した。私はふとした縁で週一回そこで日本語を教えることになった。部屋には机と椅子が運び込まれ、新しい居住者たちは日本的な雰囲気を楽しんでいる様子だった。それから間もなく、イギリス人が庭を見て私に「黄色い花が咲いていますが、あれは不吉な色ですよ」と言ってきた。私はびっくりした。

   中国で黄色というと、まず皇帝の黄袍が連想され、中国一番の色、とはいわないまでも、少なくとも高貴な色という印象がある。不吉とはどういうことかと不思議に思い、よろしい、彼の説明を拝聴しようではないかと耳を傾けることにした。
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   話を聞けば、西洋では黄色はユダヤ教を象徴する色なのである。キリストが現われたとき、ユダヤ人たちは彼が救世主であることを認めず、そのまま捕まえて十字架にかけて処刑したが、中世以後ユダヤ教徒に対する憎しみと迫害がひどくなった。二十世紀に入ってドイツではナチスが台頭してその迫害が極に達した。ユダヤ人には黄色の衣服または星型の標識をつけさせたといわれる。

   また旧約聖書「創世記」十九章には、悪人の町ソドムとゴモラが火と硫黄の雨で破壊したことが記され、黄色は別の意味で不吉な色になった。硫黄は神が悪を懲らしめるために火と共に天から降らせるものだからである。

   しかし、黄色を邪悪の色として否定的にとらえる西洋キリスト教社会が存在する一方、自然界では野に咲く美しい花々の中には黄色が多く、夏になれば麦畑の黄色が楽しげに揺らめく。中国では黄色に染まった皇帝の英姿が鮮やかに描写されて飾られている。

   ところで東京都内では黄色いゴミ袋が目立つ。いったいなぜだろうと考えていたら、ある日、東京の友人から教えられ、思わず笑った。都内に住むカラスは黄色のゴミ袋に弱い。なぜならカラス諸君は黄色だけを識別することができないからだという。

   われわれ人間は、カラスの眼から見たら、どんな色に映るのだろうね?

(『仏教タイムス』連載・第44回)
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by amaodq78 | 2006-08-18 16:03 | 新聞雑誌掲載文