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中国人はクリントンがお好き?

  アメリカ合衆国大統領といえば自分を立志伝中の人物に仕立てることに熱心なものと相場が決まっており、退任前から(早い人になると就任時から)計画を練り、自分の業績を喧伝する。大衆もまた大統領の回想録で政治の内幕を知りたがるから、回想録は売れる。しかしジョンソンにしろアイゼンハワーにしろ、今までビル・クリントンほど自分自身をネタにした大統領はいなかったと言われ、またクリントンの『マイライフ』ほど中国のマスコミで騒がれた自伝もこれまでにない。

  この自伝の出版に先立ち中国メディアは、クリントンが自伝を「彼の将来の遺産の主要な部分」と考えていること、彼がロースクールを卒業した時から早くも自伝を書こうと考え始め、ホワイトハウス入りした後は毎週一、二日を執筆に充てたこと、執筆に行き詰まり「著作の監獄」に閉じこもるのは「囚人のような生活」だったと語っていることなどを報じた。

  『中国日報』のホームページは早々と今年一月から、自伝が今年発売されると予告し、出版の半月前には「クリントン自伝一五〇万冊のベストセラーに」と題して盛んに話題にした。『人民網』はそれに対抗するように、六月十九日付で、クリントンの生活と任期中に犯した誤りについて詳しく書かれていること、クリントン自らモニカ・ルインスキーとの関係を「プライベートで一番暗黒の出来事」と書いていることなど、自伝の内容を紹介した。また多くのメディアがクリントンの次の言葉を引用した。「大統領の回想録の多くはつまらなく、自分にとっていいことしか書いていないと言う人がいるが、私の本はまずおもしろくて、さらに自分を語れればよいと考えている」。自伝のなかで自分のスキャンダルをあえて公表していることを指しているが、これがブームを煽る大きなセールスポイントになった。

  六月二十二日に米国で自伝が発売されると、翌日の『新聞晩報』『羊城晩報』などの新聞は大きな文字で「クリントン自伝大あたり」「クリントン自伝、深夜発売、大ブームに」「クリントン自伝がブレイク、雨の中熱心な読者が徹夜で行列」などのセンセーショナルな見出しをつけた。そしてクリントンのサイン会での米国読者の「クリントンはビッグスター」「彼は我々の文化的アイドル」「彼に感謝している。楽しい八年間を過ごさせてくれたから」などの反応や、「クリントン、愛している!」と興奮して叫ぶ人までいた……と細かに報道した。

  そしてクリントン自身も、自伝の中国語版に並々ならぬ関心を持ち、中国の読者が完全な自伝を読めるよう、中国の出版社と契約を交わして米国側が訳文の正確さをチェックすることを約束した。これも中国では異例のことだ。

  自伝の具体的な内容紹介は、記事のタイトルからも分かるとおりクリントンの女性スキャンダルの部分に集中し、政治について触れた記事は少なかった。「クリントン自らルインスキーとのスキャンダルを語る」「クリントン自伝で情事を公開、ヒラリー怒って原稿を焼き捨てた」「クリントン自伝発売、スキャンダルのヒロインは今どこに」「クリントン百人以上の女性と浮気」「ルインスキー、クリントンのでたらめを激しく非難」「クリントン自伝読みどころ満載」などなど。クリントンの高額の報酬に強い興味を示す報道もあり、ずばり「ビジネスチャンスは無限」と題して、このブームが実は一種の商行為であることを暴露した記事もあった。

  注目すべきは七月十四日付の『北京晩報』の記事。すでに市場では、「譯林出版社」と書かれた『マイライフ――クリントン回想録』という粗製乱造の海賊版が出回っているが、これはヒラリー夫人の回想録からの抜粋を寄せ集めたもので、本物の自伝の中国語版がまだ発売されないうちから海賊版のほうが先に登場したという。まさに利潤の追求というほかなく、過度な煽りの結果といえよう。

  実際には、次々と繰り広げられるスキャンダル報道に対しては、中国の読者からも不満が出ている。ある新聞の署名記事は「クリントン回想録はもてはやす値打ちなし」と題してこう書いている。

  「まず、国内メディアがこの本を煽り立てたマイナスの影響は軽視できない。クリントンの回想録について騒ぎ立てたことは、国内でこの本をベストセラーに押し上げる効果をもつことは間違いなく、一種の無料広告である。そして、今後この本が高値で中国に上陸するための伏線になった。この本の内容と質には騒ぎ立てるべきものはない。クリントンは退任した普通の大統領の一人にすぎず、学者でもなければ作家でもなく、政治家としての生涯にも特別なところはない。人々が興味を持っているのは実習生のモニカ・ルインスキーとホワイトハウスのオフィスで浮気をしたスキャンダルだけではないだろうか。つまりこの本は学術的価値もなければ文学的価値もない」と手厳しい。

  一冊の本がマスコミによってこれほど騒ぎ立てられることについては、「このような現象は憂慮すべき」としており、この記事はすでに国営新華社通信のネットによっても発信されている。

  もちろん、この本に喝采を送る読者もいるが、どうやらその意図は別のところにあるようだ。「趙忠祥はクリントンではない」という記事は、中央電視台の有名アナウンサー・趙忠祥と、ある女性とのスキャンダルについて取り上げている。趙との間でトラブルが起こり、この女性が訴訟を起こした際に趙があくまで否定したことについて、「趙氏が女性のことを知らないと否認したことは一般人としての誠実さを欠いている。米国前大統領クリントンとルインスキーのスキャンダルが表沙汰になったとき、米国の大衆は彼をしつこく追い詰めた。これはスキャンダル自体のためではなく、彼が誠実さを欠いていたからだ。その後クリントンは勇気をもって謝罪したことで事件を切り抜けた。趙氏はクリントンに学ぶべきだ。このことでクリントンをおもしろく魅力あふれる人だと褒める人もいる。クリントンはある意味で中国の有名人たちの手本だ!」と書いた。

  日本でのクリントン自伝出版は、中国出版界の人々にとって大きな利点となるかもしれない。少なくとも私が上海で会った業界関係者は皆、口を揃えてそう言っていた。ただ、日本よりも中国の版元のほうが焦っている。彼らは、どれだけ利益を上げられるか、また「英雄は色に弱い」という昔からの考え方がまだ通用するのか、気になっているのだ。

  海賊版を出版するのは出版業界の人であることが多いと聞く。これは中国では公然の秘密となっている。しかしこれから出るクリントン自伝の中国語版は本物であることを祈りたい。そうでなければ、私は先に日本語版を読むしかないからだ。

(『一冊の本』朝日新聞社 2003年9月号)
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by amaodq78 | 2006-08-28 20:58 | 新聞雑誌掲載文

文学は読むものである

  中国現代の文学について語るには先ず順序として社会主義の「今」である中国のことから始めるべきであろう。文学は人間の口述から数えても相当長い歴史があり、それからの新石器時代に漢字があったとする説に従えば、少なくとも何千年ばかり遡ることになる。順を追って、文学のことをたどるとなると大変なことになるが、中国文学の当面する問題あるいは、その将来について考える立場からすれば、それほど昔のことにこだわる必要はない。勿論、文学の現代とは、日頃頻繁に実感するようなものではないが、非母国語の世界からこの分野にやってくると、おそらくふたつの視野を持つことになるだろう。

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  ひとつは、先人によって転写され、あるいは蓄積された中国の文学、つまり縦としての伝統的な文学である。これは、もともと漢字文化ならではの入りくんだ書記法の所産であり、これに比べれば、文学そのものに関する限り、言語の遊戯に限りなく近いものである。但し、これは多様な解釈によって得られる情報の数々は、おのずから別の性格をもつかもしれない。もうひとつは、そういう文学の歴史を誇示するような記述をさだめることもなく、横から結びついていく、あるがままにうけとるほかない評論、つまり率直な感想である。

  日本と中国を含め、現代社会では映像としての文学がいつのまにか領土を耕しはじめ、あたかも知の秩序を再編制するかのように、インターネットによる伝達行為を駆動する原動機にもなった。それに伴い、マルチメディアの向上は著しい。伝統的な文学でさえ、いったんデジタル化されると、すぐにも注目され、文学そのものとそれを飾り付ける表象が容易に本末顛倒の状態におちいる。

  そんななか、最近1冊の本が面白い。萩野脩二著『天涼』(三恵社刊)である。この本の狙いは、たんに著者主宰のWebサイトの書込みを収集するだけではなく、書いた文には生命の燃焼が篭もっていると確信しているからと著者はいう。本のタイトルが「天涼」というのは、いささか現代風には見えないような印象を持つが、これは「はじめに」によれば、初出は中国南宋の詩人の作から引用したものである。さらに著者は続ける。「有限に生きる人の生命のはかなさを、日常的に思わせられるからこそ、天涼好個秋と唱え、生きる者とともに歩み続けるほかないと思います」

  確かにインターネットは、ほぼ例外無く情報氾濫のモデルとなり得る。と同時に、われわれが異文化や中国文学などといったテーマに向かい合うとき、インターネットにはさまざま無意味な内容やコピーの横行を解消することが求められている。このような記録の役割に対するどのような判断も著者の伝達願望と密接に関係しているとも言えよう。特に中国文学のいまを表現する場合、気取らずにとにかく書いてみるという気持がこの本の中によくあらわれている。誰でも気楽に発言しやすい実名を伏せての投稿は歓迎され、立派な活字になっている。

  勿論、パソコン通信やインターネットでは、年齢や性別といったデモグラフィックな属性を偽れるから、実社会で当たり前に成立するはずの人間関係が崩れる。他方では、確かに普通ならお互いに遠慮しがちな壁をブチ破って、率直な感想を述べるコミュニケーションを実現するという点がある。かつてなら、知らない者同士が何か議論する場合、人間を募ったり紹介しあったり、或いはどこかで顔を合わせたり、面会の日時を決めるために連絡を取ったりする必要があった。いわば、あれこれコストがかかり、その過程で他人に気づかれたり、抵抗にすら会ったりするかもしれない。ところが、インターネットにはそれがない。何のコストもかけずに、議論のためのサークルを作れる。要するに「摩擦の少ない」コミュニケーションなのだ。

  こうした摩擦の少なさに守られる形で、議論の土台が存続することが、本書の大きな特徴である。個人的には、インターネットの匿名性がそのまま書籍に写されるのは残念なことだと思うが、net×bookという著者の試みは、現代社会から淘汰されずに残るコミュニケーションについて深く考えることを強いている。

  さて、話は戻るが、ここで中国文学のいまを語れる場として本書を見てみよう。登場してくる小説はすべてではないが、いわゆる名作ではない。読み方によっては、こんな小説の、いったいどこが面白いかと思われるかもしれない。本書の構成は、書評とあらすじ、後はゲストブックからの転載がほとんどであり、それほど堅苦しく如何にも学術っぽいものではなく、かといって、「こんな感じ、これまで誰も書いていなかったなあ」と思えてくることでもない。それよりは、常識に縛られずに新しい道を探し、net×bookでしかできない実験を行ったという印象がどこかにある。著者は、そんな微妙な感覚を、Webサイトの主宰者としても、うまく言語化している。特に、中国現代、当代の文学のある雰囲気があって、参加者の誰かがそれを常におしゃべりする。あたかも北京の茶館で皆が親しくお話を楽しんでいるようである。

  中国現代の文学については、学術誌に掲載される論文で実によく勉強している。しかし、あまりにも多くのことを言おうとして全体のイメージが不鮮明になり、ときどき失敗している場合がある。勿論、表現の技術が未熟なためということもあるが、それだけではない。研究テーマに限っては、知っていること、調べたことをすべて伝えようとするのがいけないのである。表現というものを、われわれの持っているものをすべて出すことのように考えているとすれば、それこそ未熟なのかもしれない。表現とは、もともとすべてを出すことができないものであるから、一般的に省略的となる。

  この点では、本書のもうひとつの特徴を垣間見ることができる。それはWebサイトに書込みつづけた皆さんの文は省略的だということである。投稿が省略的になりうるも、えないも、相手次第であるが、共通の関心事を論ずる人達が大規模にそこに集うことを可能にするインターネット、そしてお互いに相手との通信状態を経て、気心の知れ合った仲間になっていく。時としては、人間の顔が見えない「霧」の中に読み、理解することばでも立派に通用する。要するにどんなに微細に書込んでもこのサイト以外の人間にとってみれば、わかりにくいところがないわけではない。つまり、対内的には「摩擦の少ない」コミュニケーションであっても、対外的には文脈の難解を部分的に果たしていることになる。

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  一説では、表現の省略を貫けるのは一定の範囲内である。そうだとすれば、日本にとって大きな文化の差をもっている中国現代の文学には、原則として理解されないまま省略される危険性すら存在するだろう。それを阻止するためにも本書のようにnet×bookという新たなアプローチが大いに評価すべきである。

  それは文学の世界にとどまらない。中国の政治問題を論ずるものがおしなべて、脅威論か崩壊論のような極論を特色とするのは、表現がそれなりの削り落としの原理によっているからである。

  文学は読むものである。中国の文学を読むとは解釈することなり、という考えは漢文の表現と親しむ歴史の長かった日本にとって、抵抗もなく受け入れられるものであったと想像されるだろう。そこから、新たな表現を求めたいことは本書の魅力であり、だからこそ、と言ってもよい。この本には、新しい「道」が拓かれている。

(『東方』2004年3月号)
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by amaodq78 | 2006-08-27 01:08 | 新聞雑誌掲載文

『歎異抄』を中国語に訳して

  『歎異抄』との出会い

  『歎異抄』を初めて読んだのが日本にきてから2年目のことでした。1988年の春頃だと記憶していますが、その当時、また留学生の身分を持つ私は、津市に下宿していました。高田本山の専修寺まで自転車に乗って5分程行ける距離なので、三重大学の受講があるたびに、わざとお寺をぐるっとまわっていきました。最初は、下宿先の大家さんが毎朝お寺参りに行くのを見て、ついて見に行くつもりでしたが、本堂の正面玄関ではじめて拝見した親鸞上人のお顔は、私にとって非常に驚きでした。


  輪郭ガッチリしたお顔には、一種の何とも言えないような狂気を放出するかのようにも見えますが、伝統中国で拝まれるぼっちゃとした仏様のお顔とあまりにも似ていないのではありませんか。私にとって、まったく新しい日本人像そのものと、ごく日常的な生活の中に遭遇したとも言えるかもしれません。それを機に、専修寺の親鸞像をいつも思い浮かべながら、歎異抄を読むようになりました。

  日本人の心を探る

  私にとって、歎異抄の大きな意味がその大衆、いわば庶民の実践性にあることです。鎌倉時代は日本史上にも非常に珍しい、戦乱の時でした。特にその前の平安朝中期から、政界において藤原氏一族の勢力によって独占されたわけですが、ほかの出世道と言えば仏教界だけじゃないかと思われます。そこで、あの有名な比叡山に優秀な人が集まり、まるで立身出世の機関のようになったのです。それは、実に最高学府とも言えますが、天下の秀才がここを目指して集まってきたのです。

  親鸞の生涯の師であった法然は、十三才で比叡山に入りました。後に「智恵第一の法然房」と言われたようです。その当時、仏教は進級するための受験科目みたいなものですが、はげしい受験競争があったに違いがありません。結局、経典や語釈をどれだけ憶えているのかのテストだけとなりました。学問盛んになったとしても、仏教本来の目的から隔たることにつながってしまいます。

  これに対して、日本仏教界の革命家と言うべき法然は、口誦念仏に要領を絞り込んで、専修念仏の教えを導入しました。これは、いままでの瞑想やもろもろの行を通すことではなく、ひたすら南無阿弥陀仏と口に出して唱えること自体が念仏の真理とします。従来の浄土宗は宗教作法に基つく自力修業の所謂聖道門的な煩雑の手順を重視してきましたが、そのため素朴に極楽を憧れ求める一般大衆が結果的に極楽から拒否されることになります。こう言った立場から見ると、専修念仏と言うのが、大衆を解放するものとなったのです。

  法然はこの根拠を中国の名僧善導大師の「観経疏」の要旨を借りて裏付け、権威づけたそうです。親鸞も九才から二十年間若き日を比叡山に過ごしましたが、当初堂僧としてあらゆる戒律を守り、修業を積み、仏のこころを感得しようと努力をしました。ところが、まわりの特権臭や偽善性、保守的無気力さなどを感じて、真剣に考えれば考えるほど悩みが深くなったのです。彼は二十年代特有の懐疑、抵抗、批判の精神があったので、それより自分の体から涌き出る戒律に耐え仕切れない欲望を抑えようと思っても、抑えられないと言った反動力が相当大きかったのです。懸命に断ち切ろうとしても、断ち切ることのできない煩悩のために苦しんでいました。

  悲しいきかな、愚禿鸞、愛欲の広海に沈没し、名利の太山に迷惑す  (「教行信証」信卷)

  汚れた現実の中で、理想追求の意思とおのれの欲望とのギャップを感じたのです。自分はこのままでは往生できないじゃないかとおのれの生き方に疑問を問いかけました。結局、比叡山を去ることを決意、その後生き方を自得するため、京都の吉水の六角堂で百日参籠の行に入りました。六角堂の本尊は救世観音で、しかも聖徳太子の化身だとされています。昔から聖徳太子を日本仏教の初心、原点として讃仰していたらしい親鸞は仏教を百八十度転換で改革の手掛りをこの百日参籠中に掴みたかったのです。つまり、仏教は特権階級に占有されてはいけない、悩める一般大衆の救済に唱え台として、すべての人間が阿弥陀仏の本願を信じれば救われます。そのため、阿弥陀仏という名を繰り返しとなえます。自分のはからいを捨てよ、愚かなる人に帰れ、(自力の行を捨てて本願に帰す。「教行信証」より)ということです。

  念仏だけで極楽浄土へ往生の約束が得られると、ますます庶民の人気は高くなった。本願に帰すということは、まず自分の意思で極楽を求めることを否定しなければなりません。この否定から出発して、他力の信心を阿弥陀仏からいただきます。否定というのは、そもそもマイナスのことではありますが、自分の力で人間の持つ煩悩を断ち切ることは不可能であることに気づきます。これはむなしい一種の絶望に思えますが、そこに如来の本願によって、煩悩のみのままにすくわれるという他力の救いに託されることになるのです。簡単に言うと、否中有信とのことです。

  マイナス思考を重視

  私は、日本で高校生に英語を教えたことがあり、いまでも、その時のことをおぼえています。高校生に英語の質問票を渡します。その質問のタイトルは、share with your dreamと言ったものです。「貴方の夢を共にしよう」という意味です。その中でrespectable futureとunrespectable futureと二つの希望項目を書いてあります。つまり、未来がある夢と未来がない夢とのことです。高校生に自分の思うとおり回答してもらいました。医者、科学者、大学教授などの明るく未来いっぱいの夢を書いた学生がわずか4人ぐらいで、大半の7人も自分の夢を退学、交通事故、解雇、刑罰などに記入したのです。

  私は驚きました。彼らはなぜそう書いたのかと聞くと、その答えは非常に明瞭で、こう書いておくことで気持ちが楽になるからだというのです。自分の未来に悩むことなく、煩悩を打ち切った精神で、人間存在の底、否定面から発想したわけです。こうした例を踏まえて、日本人の庶民像を捉えるのではないかと考えました。

  極限状態からの新生、或いは再起といったものは、中国人にとっては、ひとつの悲情的な感覚を与えるかもしれません。私は小、中学校の時代がちょうど、いまの改革開放の直前、世界に窓を開けようとする以前にあたりますが、その当時、私達の夢といえば、国から与えられた職業、もしくは勉強の任務を全力尽すことでした。「人民のネジになろう」という言葉が流行しており、多くの青少年が国と自己を同一視していました。国家の発展は個々人々の夢であったのです。思えば、私が日本で教えていた高校生達とは著しく異なっています。そこには、政策の違いだけではなく、日本人と中国人との宗教観の相違が秘められていると思われてなりません。

  古代仏教の否定

  「歎異抄」には、反の立場から、つまりマイナスより正とプラスのことを思考する傾向があると考えられます。否をいうのが、重要なことになりますが、これは中国人にとってたいへん理解しにくいかもしれません。

  善人なをもて往生とぐ、いわや悪人をや(「歎異抄」第三章)

  これは悪人正機と言いますが、従来危険物、毒などと批判されています。この主張は、人間的反省を伴なわない時に確かに悪事を働くのです。「本願ぼこり」というのもそうだと思います。

  善と悪は古くからのテーマです。古代ギリシャの哲人アリストテレスは、すべて人生の目的を実現する助けとなるものは善行であり、そうでないものは悪行であると考えたのです。近代の哲学者ニーチュは、人の意志が善悪の唯一の基準であると言っています。

  ところで、「歎異抄」が提出している悪人正機の悪人とは必ずしも悪い人をさすわけではありません。それはひとつの抽象概念で、広く漁業や狩猟に従事し、殺生をもって生業とする一般の人々を指します。まだ仏門にまだ入っておらず、生活の上で欲望の支配を受けている意識状態であると理解してもよいのですが、たとえ万人の認める罪人であっても、自らの悪に気づき深く後悔し、如来の真実によって救われると説きました。それがいわゆる正機そのものです。こうして往生を遂げます。世の中には、善人と悪人の区別が存在します。善人の成仏は言うまでもないのですが、世の中をよく変えるには、悪人を善に向かわせることのほうがより大切です。

  中国で東郭先生の古話があります。いつか自分は悪人になるのではないかと毎日怯えながら暮らしている老先生がいました。その人は、外にでると蟻一匹も踏まないように細心の注意を払いながら歩く始末です。悪事に対する戒めを説いた話ですが、このような悪への恐怖感とは異なり、「歎異抄」では積極的な優導により、悪を捨てさせ善に従わせようと働きかけます。なぜなら、阿弥陀仏の本願は優先的に悪人を救うことにあるからです。言い換えますと、他力に頼る悪人は、自力に頼る善人よりも阿弥陀仏の救いとなり得るのだ、ということです。一般の宗教論が善の宣揚に重点を置いていますが、「歎異抄」では悪の放棄に一番の重きを置いているのです。

  勿論、鎌倉仏教の開祖達に共通なところがあります。それは古代仏教を否定した思想にあります。中でも親鸞の悪人正機というのが、もっとも厳しく古代仏教を否定したわけです。この流れを歴史の視野で研究した結果がたくさんありますが、ひとつはっきりとしているのは、いままで経典や語釈を主流にし、諸寺院が僧兵をかまえ、派閥争いの場所にもなっている仏教は、その本来の目的から離れつつあります。平安時代初期に完成された律令体制も勃興している武士の力によって崩壊の危機を迎えていたのです。こういう時代においては、宗教はもっとも簡単にしかも真実の仏になりうると思われる道を選びました。法然、親鸞の念仏はその時代の要請に応じました。これは、庶民にとってたいへん実践性に富んた教えです。だから、日本人社会にどこかでこのような信仰による物事の考え方が根強く残っていると思います。

  善悪の二極性に陥りやすい中国人

  そこで、私自身の体験から見ますと、中国に一般民衆が受け入れた教えは敵を如何に恨む、そして友を如何に愛するという内容が圧倒的に多い。私は北京生まれ育ちですが、同じ街の子供達は、両親とよく映画を見に行きます。見た後、子供が必ず両親に聞く。いまの映画に悪い人が誰ですか?それを知ったら、また学校の先生に言うのです。さらに同じグラスの子がだれかその映画の悪人ととても似ていると言われたら、まわりの子供に相手にされなくなります。なぜなら、その子は悪い人ですから。これを例にしますと、やはり物事を運営するには、たいへん極端に行き易いのです。子供社会だけではなく、大人でも同じ傾向があるのではないかと思います。私の知っている中国の作家がいます。最近、次の小説を書きました。喧嘩の絶えない夫婦が真剣に離婚を考えるようになり、妻が実家の母親に相談を持ちかけると、母は悪いのは一体どちらの方かと尋ねます。「悪いのはどちらでもない」と答える娘。すると母親は、突然無口になり背を向けてしまいます。母親は戸惑ってしまい、娘に何の助言も与えられません。なぜなら、善悪を明確に線引きするいままでの価値観がくずれてしまったためです。こうした八方塞がりの状態は、まさに現在のわが中国社会と同じといえるでしょう。

  苦難こそ信仰の原点

  「歎異抄」の著者はかつて親鸞の教え子だった唯円ですが、彼はこの本を書き始めたのが三十九歳か、四十歳くらいです。中国の古い言葉に「三十歳で自立、四十歳で惑わず」と言われていますが、人間は四十歳まで迷うもののようです。言い換えれば、四十歳という不惑の年齢は、成熟した年代とも言えるでしょう。

  その唯円は、親鸞が死んで、二、三十年後、自分の想起した師匠(親鸞)の言葉を書き込んだわけです。それは「歎異抄」という題が示すように異を歎いたというものでした。唯円の時代に親鸞の教えはひろく布教されましたが、同時に、誤解されたり、歪曲されたりしたこともたびたびありました。こうした世間の異を歎き、信仰を師が唱えたような元の姿に戻そうという強い願いによってこの書物は綴られています。それは、熱烈果敢ともいえる親鸞の一言一句から浮かび上がっています。

  念仏者は無碍の一道なり (「歎異抄」第七章)

  私は「歎異抄」を読むたびに、その実践性に基づく信仰の熱気に打たれ、いつも生命の尊さを実感させられます。

  親鸞は人間の力に絶望していまず。それは不惑の年でたいへんな苦労の重ねた月日を過ごしたことにも原因があるでしょう。三十五歳で念仏停止になり、越後へ流罪、先輩たちが受刑された。親鸞自身も配流の罰によって、還俗させたれ、藤井善信という名前をもらいます。戒律持たずに肉食妻帯し、すべての迷いを仏の海に流す。阿弥陀仏を信じた彼は究極の境地に立っていたのです。この苦難を信仰の原点とし、自分の不惑を固めました。

  親鸞の反骨の精神

「歎異抄」の最後一つの付録がついています。私はそれを訳す時に悩みました。というのも、実はその最後の言葉は皆完璧の漢語でした。

  親鸞改僧儀賜俗名、仍非僧非俗、然間以禿字為姓被計奏聞了。

  俗名を賜ったということは、親鸞にとって恥辱であったことに違いがありません。彼は権力によって僧でないと宣告されました。しかし、彼は権力に屈することなく俗人とはほど遠い人生を貫きました。俗とは決別せんと「非俗」宣言をしたのです。そして彼は禿の字をもって姓となすことをお上に伝えたのでした。僧侶ではない、俗人でもない。これは、お上に対する強烈な反動です。そうした親鸞の反骨的な人柄が、上の一行の漢語から窺われます。

  「歎異抄」全体は片仮名と漢字で構成されています。序言の部分には、漢語の文章がありますが、それ以外では上の文章だけです。突然このような漢字一行が現われてきたのですから、翻訳者にとってはその意外性にかなり戸惑いを覚えました。しかし同時に、この結語には大きな意味があるに違いないと直感し、強く惹かれたのも事実です。

  私はこの漢語をそのまま引用するのではなく、現代中国人にも理解できるよう、そのニュアンスを味得しながら訳してみました。その時の意外性、翻訳の際に生じてきた迫力をいまでもはっきりと覚えています。これは、私が惑わずに直接に親鸞の情念を感じ取った瞬間であるのかもしれません。

  1999年6月18日 第78回顕真館公開講演会 龍谷大学 京都
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by amaodq78 | 2006-08-23 13:00 | 新聞雑誌掲載文

ブッダと結婚

  文学界に新風を送り込んだ『上海ベイビー』 から数年、あの美人作家・衛慧が帰ってきた。衛慧といえば、女優顔負けの美貌、文学の修業で培った冷徹な人間観察力を持ち、英語から宗教、ファッションまで幅広く学びながら、なぜかエリートコースをドロップアウト。『上海ベイビー』の発禁処分により、しばらくは言論の自由さえ奪われてしまう。だが、上海での退屈な毎日に嫌気がさした彼女がアメリカに渡ったことで、再び世間を騒がす著述に関わっていくことになる。

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  彼女の新しい小説『ブッダと結婚』(泉京鹿訳、講談社2005年5月刊行)は、その死生観も『上海ベイビー』とは全く異なる。ヒロインの恋の相手が日本人男性だということもあり、自然に触れて心安らぐというような日本人らしい心のあり方も描かれている。生と死にまつわる感性についてはいえば、なるほど彼女の感性は強靭かもしれないが、あえて言えば、日本仏教のような繊細さや柔軟さには欠けている。日本仏教の教えでは、木の葉一枚落ちただけでもそこに生と死の営みを見出すが、そういう感性に本書は縁が薄い。

  しかし、ブッダといえば、実に深刻な悩みを抱えつつ死を迎えているのであり、けっして立派な死に方をしているわけでもない。『ブッダと結婚』をこのように考えながら一気に読み終えると、ある種の充足感に包まれた気がする。私自身がブッダのいる世界、ブッダのいる生活を知っているからこそ、そう思うのかもしれない。


  日常の生活に追われていると、人間はどうしても慣れと甘えで感覚が鈍化してくる。だからこそ、上海という物欲の渦巻く大都会で青春を過ごした女性が一人の日本人男性を真っ向からみつめ、そして懸命に生きつづけた。そこのあたりが実に心に迫ってくる。粗筋は言わないが、ここから著者が本書にかける並々ならぬ決意を見て取ることができるはずだ。過去、ブッダについて書かれた中国の書物は数多い。例えば、仏教の伝達地として歴史上有名な白馬寺の利権をめぐって恋愛事件が起こるというような小説があるとしよう。

  しかし、読者はそんな物語は現実に存在しないとわかっているから、どこか冷めた意識で読む。『ブッタと結婚』はこのような作品とは一線を画している。最後まで読めば、いまの中国人女性のアイデンティティについてもすべて知ることになるかもしれない。

(『仏教タイムス』連載・第84回)
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by amaodq78 | 2006-08-22 22:09 | 新聞雑誌掲載文

雨後の筍

  ファッションモデルという職業は中国にとって、まったくの新しいものである。人民服一色の時代もそれほど遠い昔ではない。国の開放はまるで一夜に目覚めた時に、両眼に飛び込んできた光景であり、頭で理解もせず、街中の服装は日に日に変わっていく。こう言ってくれたのが、90年代の初期に世界を驚かせたモデル陳小姐だった。確かに、旧知の彼女と偶然にも北京の国際空港で会った時のことだが、私より身長高い彼女に、その清潔感のあるエキゾチックな容貌でまわりから多くの視線が注がれていた。

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  「これにはもう慣れたわ。みんなは、昔ならもっとジロジロ見てくれたけど、いまは、空港なんか行くと、モデルの女の子に会えることもちっとも珍しくないわ」

  「ということは、彼女達はいつも海外か、或いはほかの地方に頻繁に行くようになったっていうことかね?」私は陳さんに聞いてみた。

  「そうね。最初は上海から流行り出したの。それと、外資系アバレル業者も中国に進出してきたおかげでもあるわ。私が日系会社のファッションモデルオーディションの審査委員に勤めたのがいまから5、6年ほど前だったわ。その後になると、ほんとうに雨後の筍のように競って各社が中国人のモデルを発掘しはじめた。」

  確かに、日本では、モデルを夢見た女の子も、いろんなオーディションに挑戦しなければならないが、社会もそれなりの環境を整えていることも容易に理解できる。中国のいま、開放してから十年あまり、はたして華やかなデビューを目指す女の子にとって、たくさんの可能性が潜むと言ってもいいだろうか?

  「それは貴方、国から長いこと離れているからわからないかもしれないけど、いまはもう、毎日のようにどこかの会場で審査が行なわれているのよ。上海や北京のような大都会だけではない、小さな街でも繊維関係の商談会を開くたびに、人々は群になって、ファッションショーを楽しんでいる。それが無ければ、お客もこなくなるという恐れすらあるのよ。」

  陳小姐は92年のパリコレに出演し、その東洋神秘に包まれながらの身姿で高い評価を受けた。翌年、同じくパリでプロのファッションモデルとして活動開始。

  「海外よりはやはり、国内にチャンスが多いね」こう言いきった陳さんは、いま、モデル業をやめて、自分の会社を持つようになった。中国人モデルのプロモーションのかたわら、中国最大級のモデル育成学校もオープンさせた。そんな彼女は、いつも数珠を腕に巻き、時間がある時にかならず、北京市内のお寺にまいるという。

  「貴方はいま何を一番信じますか」と聞くと、彼女は真剣な顔でこう答えてくれた。「こころの中の仏さまよ、特に事業はうまく行かないときね」

(『仏教タイムス』連載・第29回)
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by amaodq78 | 2006-08-19 23:37 | 新聞雑誌掲載文

カラスよ、その色が見える?

   国道2号線の南側にある阪神電鉄の芦屋駅から海岸にむかっての緩やかな傾斜地に、長さ十数キロメートル近くにも及ぶ細い川が延びている。河沿いに道路の端から南方を眺めると、左右の建物にはさまれて彼方に海が見え、その上に空がある。

   道は古びた灰色の敷石で幅いっぱいに舗装され、それが自動車道になっている。

   今から数年ほど前だったと思うが、そのあたりの立派な和風の屋敷にイギリスからやってきたキリスト教の修道会が入居した。私はふとした縁で週一回そこで日本語を教えることになった。部屋には机と椅子が運び込まれ、新しい居住者たちは日本的な雰囲気を楽しんでいる様子だった。それから間もなく、イギリス人が庭を見て私に「黄色い花が咲いていますが、あれは不吉な色ですよ」と言ってきた。私はびっくりした。

   中国で黄色というと、まず皇帝の黄袍が連想され、中国一番の色、とはいわないまでも、少なくとも高貴な色という印象がある。不吉とはどういうことかと不思議に思い、よろしい、彼の説明を拝聴しようではないかと耳を傾けることにした。
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   話を聞けば、西洋では黄色はユダヤ教を象徴する色なのである。キリストが現われたとき、ユダヤ人たちは彼が救世主であることを認めず、そのまま捕まえて十字架にかけて処刑したが、中世以後ユダヤ教徒に対する憎しみと迫害がひどくなった。二十世紀に入ってドイツではナチスが台頭してその迫害が極に達した。ユダヤ人には黄色の衣服または星型の標識をつけさせたといわれる。

   また旧約聖書「創世記」十九章には、悪人の町ソドムとゴモラが火と硫黄の雨で破壊したことが記され、黄色は別の意味で不吉な色になった。硫黄は神が悪を懲らしめるために火と共に天から降らせるものだからである。

   しかし、黄色を邪悪の色として否定的にとらえる西洋キリスト教社会が存在する一方、自然界では野に咲く美しい花々の中には黄色が多く、夏になれば麦畑の黄色が楽しげに揺らめく。中国では黄色に染まった皇帝の英姿が鮮やかに描写されて飾られている。

   ところで東京都内では黄色いゴミ袋が目立つ。いったいなぜだろうと考えていたら、ある日、東京の友人から教えられ、思わず笑った。都内に住むカラスは黄色のゴミ袋に弱い。なぜならカラス諸君は黄色だけを識別することができないからだという。

   われわれ人間は、カラスの眼から見たら、どんな色に映るのだろうね?

(『仏教タイムス』連載・第44回)
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by amaodq78 | 2006-08-18 16:03 | 新聞雑誌掲載文

無限の清涼

  新聞社を通じて読者の方からお手紙をいただくのはうれしい。また、直接に電子メールをちょうだいするのもありがたい。ホームページを開設したおかげで、ネット上の通信もずいぶん多くなってきた。文章を書くことは、川に石を投げるようなものである。多くの場合、その川も沈黙の闇に吸い込まれてゆくかのように、なにも返ってこない。しかし、作者としては石の落ちたあたりからカンッ、とかパシャとか、なにか音が響いてくるのを期待する。最近、私は特にそう思っている。

  先日、こんなたよりをいただいた。

  「中国の僧侶について、その様子をすこしご紹介していただけないですか?」

  案外とこういうシンプルな質問ほど、どう返事を送ろうかと困ってしまう。中国の僧侶についてと言われても、僧侶もひとりひとり人間それぞれの性格もちがうだろうし、一概には言いにくいからだ。せっかくのお便りに返事を出さなければと焦っているうちに、なぜか私がはじめて出会った僧侶のことが思い出された。そして、概ね以下のような趣旨で返事を書いた。

  私は大学時代に五台山に登りに行ったことがある。その日は予想以上に暖かかった。晩冬なのに、季節を縛っていた糸がふっと緩んだ感じで、まるで初夏のような風だ。背中が汗びっしょりになった。疲労困憊した私はどこか近くに休める場所はないかとあたりを見回した。

  そのとき僧侶の風体の男が横をすっと通り過ぎた。私はその場に立ち止まったまま彼の後ろ姿を何気なく見送った。坊主頭の男は大きな包みをひとつ肩にかけていたが、汗もかかず、私のようにはあはあともいっていなかった。両足は軽く前に跳ね進み、私とは大違いだ。不思議に思って見ていると、少し先のほうで男は道端に座った。そして、皿のようなものを取り出して、静かに食べはじめた。息切れもせず平気で山を登れる人間は、さぞすごい料理でも食っているだろうと思って私は男にそれとなく近づいて覗き込んだ。なんと普通の豆腐じゃないか?山道に根を上げているくせに肉や魚をたっぷり詰込んだ弁当を持っている自分が恥ずかしく思えて仕方がない。

  豆腐を食べ終わると僧侶は無言のまま、またすたすたと歩き出した。遠ざかる男の背中の包みに書かれた「無限清涼」という四文字に、そのときはじめて気がついた。
 
(『仏教タイムス』連載・第74回)
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by amaodq78 | 2006-08-15 16:16 | 新聞雑誌掲載文

日本人への旅

 講演後の質疑応答がこんなに活発なものになるとは思っていなかった。ある学生はこう質問した「作家は生活そのものを選ぶと思います。東京の歌舞伎町のような劇的な場所が好きな人もいるけれど、あなたはあなたの周りのことのほうが好きだということですね?」。またある年配の方からはこんな質問が出た「あなたの細やかな描写は日本的な方法の影響を受けているのですか?それとも努めて日本的な方法を超えようとしているのですか?」

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 間違いなく、彼女たちは私の手の内を掴んでいる。私が言いたくて、また同時にあまり言いたくない、締めくくりの言葉を言ってくれた。実際のところ、こんなに多くの学生諸君を前にして、またこんなに熱心に日本を理解しようとする聴衆に対して、私は何を見せたら、日本に対する私の理解を示すことができるのだろう?

 隣国に住む一人の北京人であり、日本語での表現に力を注ぎ、同時に母国語が生まれながらにして私に与えてくれたものを享受している。こんな私の日本に対する理解は言語の内部から始まっているのかもしれない。

 講演会が始まる直前、北京大学の主催者から「今年は抗日戦争勝利六〇周年です。学生からは多分たいへん敏感な質問が出るでしょう」といわれたが、私は即座に「たいへん歓迎です」と答えた。私の言うところの「たいへん」と主催者の言う「たいへん」は同じ重さのものだと何となく感じたので迷うことなく答えた。

 このように言うのには、実は何も深い理由があるわけではない。私の日本での生活はリアルなものだから、ほとんどすべての問題は人間の、風景の、もちろん動物も含めて具体的な表情に置き換えることができる。講演のとき、普段からあまり原稿を使わない。とりわけ、皆と話し合うときにエピソードを交えると、即興の言葉が飛び出し、その飛び出した言葉が皆の笑いを呼ぶことが多いからである。
 
 私は一人の旅行者である。日本人への旅を続けている人間である。1998年から日本語での執筆をはじめ、日本語を使って日本を表現して、紀行文学の二カ国語作家となってからも、このポジションに変化はない。ある時期、周囲の日本人が「中国人はそもそも日本を理解していない」といい、そういうときの彼らはいかにも自分が中国を理解しているといわんばかりだった。このような話を聞くたびいつも耳障りだった。心から言うが、私は日本人が中国を理解することを望んでいるし、また中国の日本への理解は日本の中国への理解より、もっと必要かもしれないと思っている。とはいえ今の時代にも日本を理解する中国人がいないわけではあるまい。 

 知ることは理解の入り口である。この入り口を通る道は一つではない。もし、学識上の見解は幅広い知識の海から汲み取れるものだという人がいたとしても、その人の見解は自身の日本での実際の生活を超えるものではない。私は日本語の「等身大」という言葉をよく使う。中国語で言えば「原大」にあたるかと思うが、「等身大」にはそれだけでは言い表せない語感が含まれている。「等身大」の意味するものは、相手と自分が同じ身長、同じ体重、同じ視点であらゆるこまごましたことを観察する、そこから得られた完全に自分自身の感性による結論と判断である。

  講演中、日本人にとっての「悲」について話した。私のある友人が不治の病におかされた娘に桜の花を見せる話をした。大雨のあと、夜通し地面の桜の花びらを拾い上げ、大きな山をつくり、二階の病室にいる娘が窓から見られるようにしようとした。しかし彼は、そのとき娘がすでに臨終の時を迎えていることを知らされ、花びらをいっぱいに詰めた袋を提げて一目散に病室へ走っていった。そのとき袋が金属の手すりに当たって裂け、彼の後ろには悲しみの桜の道が一筋のこされた。

 また、日本人の「愁」について、近所のサラリーマンのことを話した。彼は会社が不景気でリストラされ、一日中家でふさぎこんでいた。ある日たまたま商店街を歩いていて、突然現れた野良猫が宝石店に入っていき、煙のように入り込んだかと思うと、ショーケースに飛び乗り、宝石を飲み込んだというのだ。そこで彼は不安になってきて、夜になって私を呼びこう言うのだ。人間は猫にも劣る、猫が一気に宝石を飲み込めるのに、人間は会社からクビになる。彼は落ち込んだようだが、同時に猫を殺して宝物を取り出すという考えが浮かんだらしい。そこで彼はいくつもの方法を考えた。たとえば、落とし穴を掘って溺れさす、あるいはナイロンの網で捕まえるなどだ。ほどなく、野良猫は彼の家の庭に現れて、傍若無人な様子で、大きな口を開けて吐きだした。野良猫が吐き出したのは、宝石でもなんでもない、小さな石ころだったのである。私はなんとばかげた出来事かと思ったが、そのとき、彼が猫の歩いていったほうを向いて手を合わせ、「南無阿弥陀仏」と唱えているのに気がついた。

 間違いなく、今述べた些細なことは私の生活の中で起こったことである。そしてこの些細なことこそがまぎれもなく私の日本に対する理解である。講演中、日本人の「怨」と「恨」についても述べたが、どんな抽象的な概念であっても、喜怒哀楽の情感でも、いつも具体的な状況のなかにそれらを置くことができる。なぜなら私は生活こそ常緑の樹であると信じているからである。

 講演会では私が期待していたたいへん敏感な問題については、だれも質問しなかった。しかし、敏感な問題であっても私の答えはきっと細かく具体的なもので、何ら抽象的なものではなかっただろう。
 
 最後に、日本国際交流基金会北京事務所と北京大学がこの講演会の機会を与えてくださったことに感謝したい。また日本語版「人民日報」編集長の王衆一氏に感謝したい。彼との対話のなかで、私が思い感じていることがだんだん具体的になり、だんだん細かくなってきた。私たちは文化とは多様な情況論であり、単一的な思想論であるべきではないという同じ考えを持っている。
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 (2005年9月10日 北京大学で毛丹青『等身大の日本』の講演会が行われました。全文は国際交流基金のPR誌に掲載)
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by amaodq78 | 2006-03-01 11:07 | 新聞雑誌掲載文