カテゴリ:文事清流( 103 )

言葉を感じるために

 言葉の面白さに取り憑かれて、かなりの年月が過ぎた。そもそもそのきっかけは、小学3年、同じ机を並べる友から借りた一冊の連環画だった。ほかの詳細は記憶にないが、ただタイトルに「封神」という二文字が入った気がする。いわば英雄といわれた人物の生い立ちからの物語だ。読みはじめはきっと嬉しかったに違いないが、その人物はいったい誰だったのか、さっぱりわからなくなったのである。
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 無論、人物よりその物語の面白さに引き込まれたことを今も思い出す。しかし、肝心な人物は忘れていた。言葉とは、人のために智慧を育くむ力を与えながら、その想像力を培い、知識と好奇心を満たしてくれるものでなければならない。

 日本人学生にとって、中国語を学ぶ場合、ある種の疑似体験であると言ってもいい。言葉が違っても、言葉は言葉である。それによる想像力は縦横無尽に限りなくひろがるから楽しさ面白さも無限のはずだ。今回はこのような強い思いを抱いて、個々の発想で読むことができる本。また、学校の中ではなくても、どこでもこの一冊さえあれば、言葉を楽しむことが可能であるように、嬉しい極楽があればいい。
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by amaodq78 | 2009-08-01 11:45 | 文事清流

元気な中国文学が見える講義

 たとえば、政治事件などが世論を席巻したのはけっこうであるが、それのせいで今の日本で中国文学に対する関心が薄れていることは否定しがたい。実際のところ、文学蔑視が精神の貧困にもつながることは明らかなのだ。
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 中国文学の邦訳出版をめぐる状況は関係者の多大な努力がおこなわれているにもかかわらず、なお困難な状況が続き、出版のあり方も模索されなければならない。かといって、政府の機関が多少の助成金を出すくらいで世の趨勢が急に変わるはずもない。しかし、それでも大学の講義として打てる手は打つというところに、中国文学への持つべき認識があるのではないだろうか。

 本日、熱心な学生諸君の受講をみて、なぜか嬉しい気持ちになったのである。

 中国といえば、物騒な世相など暗いイメージをいだく人も多いだろう。とりわけ現地での実感として、貧富格差に発する社会問題は深刻なのである。しかし、そういう国の文学が目に見えない場で着実な努力をしている。少々大げさに「中国」を語るが、文学の中での「本物」とは、実はこの激動な時代に存在しているのではないかとの感がないではない。写真は、女優+ミュージシャン+作家の田原さん(ティエンユエン)との公開対談、徐々に知られるその80年代生まれの世代の文学についても語ってもらったのである。
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by amaodq78 | 2009-07-01 19:19 | 文事清流

翻訳文学と読み方

 絶望的なほど話がおもしろくないのは、申し訳ないけれど中国文学である。そもそも激流の中国は、もっといい文学を生み出せるはずなのに、なぜか小説はその存在を極端に小さくし、純文学すらたいしたことのないことでも重大な危機のように受け止めるというから、話がおもしろくなくなるのは必然だったかもしれない。

 そんな中、彗星のようにあらわれたのが田原(ティエン・ユエン)というアーティスト。女優+ミュージシャン+作家などとしてその多彩な才能を発揮している中国の「80后」の代表格とも言えよう。初邦訳の小説は25日から講談社より発売中↓
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by amaodq78 | 2009-06-28 06:28 | 文事清流

春に思うこと

 北京の風は乾燥している。肌に直接吹き付けるとき、針でつつかれたような痛みでとびあがる。このような感覚は春に北京に帰ったときに体験したものだ。

 その以前に、もし僕が住んでいるのが日本の港町でなければ、もし海から自宅までたった数分の距離でなければ、それほど北京の春の風が気にならなかったかもしれない。おかしなことに、もともと乾燥していない風が今では乾燥したものに変わり、そもそも何を湿っているというのかわからなかったのが、今はわかるようになった。ここ数年、頻繁に中国と日本という二つの空間を行き来することもあって、空間は確かに生活の現実であることをよく知ったのである。

 北京の家は城東に近く朝陽区である。何本もの線路があり、基本的にみな北京東駅から発車する。小さいころ、毎日列車の汽笛を聞くために、いつも近所の仲間達と集まった。皆、あるものは家から鍋を持ってきて力いっぱいたたき、あるものは小さな旗を振って、あるものは帽子を空高く掲げた。

 当時、鉄道を見に行くことは春節を迎えるのと同じように楽しいことだった。毎回、列車が連なっているのが少し見えると、皆遠くから叫びはじめた。

 僕はこの子供達の一人で、あまり定かではない記憶をたどると、当時まわりからチビと呼ばれていた。しかし、当時ほんとうに気が小さくて怖がりだったので、列車が近づくと事故が起きるのが怖かった。だから、却って人がいない情景が印象に深く刻まれている。

 これまでずっと毎回列車が目の前を通り過ぎるたび、記憶は瞬間的に少年時代に飛んでいく。中国で列車を見かけようと、日本で列車を見かけようと関係なく、さらにはヨーロッパを旅していて列車を見たときにも、このような瞬間に遭遇するといつも、ある種の幻覚が湧き上がる。だれが呼ぶわけでも、管理しているわけでもないが、幻覚そのものは終始暖かく親しみに溢れている。

 春は美しい季節である。少年時代の列車は僕の記憶を積んでいる。ときには、人間は永遠に若いのだ!という思いにさせてしまう。
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by amaodq78 | 2009-03-18 14:10 | 文事清流

旅と記憶と僕

 あとになってから旅の思い出を語ると、記憶の中に蘇ってくるのはいつも誰かとの会話、それにその人がいる場所からの眺めであることが多い。なんとも旅情に乏しい限りだが、理由ははっきりしていない。

 北京への飛行機に乗って旅に出かけながら、近づいたイベントのために関連書籍を読み込んでいるから、実際の旅とあまり関係ないのである。

 おととし、作家の李鋭さんの大阪講演会のあと、京都市内のホテルへ移動。秋の夕陽に暮れなずむ電車沿線の風景、すべてが輝かしい …… 古い町屋のただずまい、細い路地、道にかかるアーチ、家並みの奥へと続く階段、かつて御所近くの喫茶店で大手出版社の役員と一緒に飲んだコーヒーの味は忘れられない。 ありのままに見たまま聞いたままを文章にしたいと思っていても、文章は現実そのものではない。確かに複雑な多面的な現実を、作家というひとりの人間の位置からとらえた現実の一部に過ぎない。場合によっては、その一部の現実を、作家の選んだ言葉に置き換えたものに過ぎないのである。

 ひとつの情景が再発見によって記憶に結びつくとき、その結びつきはどんなものにも成長して固くなるのだ。 表紙は李鋭さんとの共著、今月から中国全土で発売される予定↓
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by amaodq78 | 2009-01-12 23:53 | 文事清流

中国人作家たちの眼に映った日本

 日本をどう見るかは大きなテーマだ。テーマは幾らでも大きくできる。日本の国民性とはいかなるものか?集団主義なのか、それとも礼儀の国なのか?そのテーマについて「古を談じ、今を論じる」のもひとつの答えであり、身近にある些細なできごとから語ることもまたひとつの答えだろう。

 しかし、話を大きくするのは比較的容易だが、小さなできごとから語ることはそう簡単にはいかない。なぜなら小さなできごとは身をもって体験することが求められるからだ!

 十年前、作家の莫言さんと日本を旅したとき、東京で通りがかった日本料理店にふらりと入ったことがある。店内は煌々と明るくて、入り口で靴を脱ぐようになっている。木の上がりかまちを一段上がって、靴を木の棚に入れる。木の箱が壁一面にずらっとならんでいて、それぞれの扉に鍵がついた札が下がっている。札もそれも木でできているようだ。 莫言さんは「銭湯みたいだな」と言った。

 このような作りの日本料理店が比較的多いせいか、莫言さんに言われるまで、銭湯みたいだと思ったことはなかった。莫言さんが「日本料理店」を「銭湯」にしてから、私もそれを真似て日本の友人に同じように冗談を言ってみると、意外にも彼らからは「その通り」といわれたのだった。

 おととしには、作家の余華さんがはじめて日本を訪れた。代々木公園の芝生を歩いていたとき、彼は感心したように言った。「東京は木が多いんだなあ。いわゆる天地を覆い尽くすというのではなくて、あんなわずかの隙間にも木を植えていますね!」

 じつは、彼が泊まっていたホテルの窓からは、小さなビルとビル隙間にも木が植えられているのがよく見えたのだった。それが耳の穴のようなわずかばかり空間であっても、である。木というより、壁一面のツタの葉の緑でも、満たされた気持ちになった。

 おなじ作家でも、視点が違えば、思い考えることはまったく違う。去年、作家の李鋭さんと東京から列車で仙台へ行った。車中ではずっと本を読んでいた李鋭さんだが、魯迅先生が留学のために仙台へ向かった冬の日の情景を私に話してくれた。わたしたちの列車の窓の外に広がるのは日本の晩秋であったが、枯葉がすでに落ち、トンネルに入る際に見た枯葉は、疾走する列車に煽られて地上から舞い上がる残灰のようだった。

 夜までかかってようやく仙台に到着した。李鋭さんはこのことを、今年の文芸雑誌『収穫』に『焼夢』と題して発表し、このように描写している「いま思えば、仙台入りには黒夜がふさわしかった。歴史が歳月による腐蝕のせいで見る影を失おうとも、黒夜だけが色あせることなく、黒夜だけがもっとも当時の歴史の地色に適い、もっとも魯迅先生の心境に適っている。」

 日本に来たならば、京都はぜひとも訪れるべき古都である。街の構造は唐代に似た風格がある。今年、前後してこの街を訪れた二人の中国人作家に同行した。ひとりは蘇童さん、もうひとりはアニー・ベイビーさんである。

 蘇童さんは蘇州出身で、幼い頃から水のイメージとしっかりと結びついているが、京都はその正反対、盆地で三方を山に囲まれ、平野も海も見えない。そんな街なので、私は蘇童さんの話に水が出てくると思っていなかったのだが、彼と話をしていて頻繁に登場するのはまさに「水」であり、目の前に見える樹でも山でもないのだった。蘇童さんは以前発表した短編小説について詳しく話してくれた。その小説のタイトルは『水鬼』である。こうしてみると、時空の置換えは座席番号に従う必要はない。蘇童さんが感じたように山を見て水を語ればいいのだ。いつか蘇童さんと蘇州をおとずれたとしたら、「水を見て山を語る」になるかもしれない。

 ほかの作家にくらべて、アニー・ベイビーさんは饒舌なタイプではない。しかし、行動派であり、ときにはウィットに富んだジョークが飛び出す。彼女は私に、京都は旅のなかでも、とりわけよく歩いた街だったと話してくれた。彼女は夕食後、また街へ出た。これといった目的があるわけではなく、ただただ歩き、街並みを見る。見ると感じることがあり、感じることあると考え続けるのだという。

 彼女の滞在中にちょうど“弘法市”があった。地元の人は“弘法さん”と呼び、毎月21日に東寺の境内に骨董や雑貨を売る市がたつ。日本の高僧空海大師の命日が由来で、その後、京都の信仰深い人々によって毎月空海さまに線香が上げられる。その傍でごちゃごちゃとガラクタが売られる、聖俗合いまみれるもので、市はこの上なく賑やかだった。そのうちアニー・ベイビーさんが日本の感想を書いてくれるだろう。同行者として彼女の文章を読むのが楽しみである。

 百年以上の時を超え、魯迅先生の時代に比べれば、中国の作家が日本を観察しても昔ほど未知の出来事にあふれているとは限らない。また、どれほどたくさんの小さな出来事があったとしてもすべて書き記されるとはかぎらない。しかし、彼らと同行でき、それを記録することは、ずっと日本について書いてきた私にとってとても貴重なことかもしれない。
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by amaodq78 | 2008-12-25 01:19 | 文事清流

メリークリスマス

 ここしばらく、毎年の年末になると、著作使用承諾書が届く。主に大学の入試問題として採用されてきたが、今年は高等学校を加えたこともあって、たいへんありがたいものである。 奈良学園高等学校はそのひとつ、しかも親友の娘は昨年の受験で僕の文を読み込みながら、懸命に答えたという。 僕はこんな年齢になった実感はまったくないと言ったら、まったくの嘘になるが、なんだか寂しい気持ちになる。

 皆さんもメリークリスマス!
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by amaodq78 | 2008-12-24 11:33 | 文事清流

中国語ブログ1500万アクセス突破

 中国語で書こうとするブログがまず最初にカタチを持つのは、あるときふと日常の中に宿る、一瞬のような表現欲だ。書こうとするそのブログの中国語をほとんど規定した内容のときもあれば、そうではなく文字通りひらめいたほんのわずかの描写にすぎない場合もある。

 いずれにせよ、これはかならず立派な中国語の文章になる、と書く当人である僕が半分遊びのような感覚だったかもしれない。

 ブログを書かなくては、という思いに触発されながら、僕のなかにおそらくずっと以前からあったものが、ようやく適切な表現方法に浮かび上がってきたような気もする。

 これは表現の喜怒哀楽だとしか言いようがない。

 これまでブログを書いてきた実体験が、書かれるべき次の中国語表現のための大きなステップを用意してくれる。そう信じたい。

 ブログとは、僕にとってすでにあるものだ。これから書こうとする僕を助けて作動し続ける表現欲は、眠っていたさまざまな過去を掘り起こしてくれるのだろう。僕はそれを頼りにするつもりである。
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by amaodq78 | 2008-12-17 22:59 | 文事清流

杭州講演会、話術から考えると

 講演会がどんな場所であっても、聴衆の心をとらえて離さぬところがあるのは、文章に比べてはるかに、終わりよければすべてよし、の話術的発想に忠実になりうるからであろう。終わりと言えば、“落ち”のことである。
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 関西の人の言葉がおもしろいと感じられていることとも無関係ではない。日本語では、もっと終わりに裾まわりに気をつける必要があるが、僕の中国語も段々そうなっていく気がする。
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by amaodq78 | 2008-12-16 14:44 | 文事清流

本のタイトルに「豆」をつける

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  新刊の表紙に関して、よく本の顔ということが言われる。読む、見る、そして買う。これらは意外に独立しているそうである。著者として確かに表紙を見て満足しても読者とはあまり関係ないと思う。表紙だけではなく、内容だってそうだろう。

 通常、人は、他者の文章を読むことからはじめて自分の思いを形成することができる。中国全土での発売開始は来年1月7日、北京ブックフェアの期間中からと聞いているので、期待したい。本のタイトルは仮邦訳で『にっぽん 七つの銅製さやえんどう』、中国青年出版社から刊行される予定
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by amaodq78 | 2008-12-09 11:04 | 文事清流