カテゴリ:ノスタルジックな時間( 21 )

空行高野山予告編

映像作品『遊日通道』第三話(高画質2160P)予告編は中国で公開した。今年3月上海で新刊誌『在日本』創刊プロジェクトのひとつでもある。前二話も現在の統計でアクセス数すでに200万回以上を記録した。いいスタートだ!YouTubeにもアップしたので、お時間のある時でもぜひご高覧下さい。日本文化に触れ、その美しさと奥深さを探求することで豊かな感性を身に着ける90年代生まれの中国の映像作家に、僕は大きな拍手を送りたい気持ちだ。


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by amaodq78 | 2016-02-14 14:44 | ノスタルジックな時間

日本語とその空間

 日本語の読書は、僕にとってまるで昼寝や遊びのように無意識に生活のなかに侵入してきたものであった。その場合、僕をとらえた母国語の中国語と同じぐらい、日本語を読んだ「実在」そのものが密接な背景として思い出される。

 近所の日当たりのよい桜並木の散歩道、タバコの匂いがしみ込んだ僕の書斎の古い椅子。覚えたての日本語をたどれば、新たな表現の世界が扉を開けて待っているという発見が僕を夢中にさせたのである。そして、今日も日本語の本を読み続けている。
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by amaodq78 | 2011-04-07 09:49 | ノスタルジックな時間

卒業式

 毎年3月は、大学の卒業式の季節だ。大学によって規模は違うけれど式次第は大体同じだ。開会の言葉、学位の授与、校長の祝辞、卒業生代表の答辞、校歌の斉唱、閉会の言葉。教師と学生にとって、形式的な卒業式よりも、むしろ、キャンパスでの記念撮影や夜遅くまで続く卒業パーティーのほうが記念イベントの中心かもしれない。しかし、毎年3月の休暇には中国に帰国しているので、今まで卒業式には出席したことがない。今年もそうだ。ただ、今年は心が温かくなる出来事があった。

 ある学生から、週末の予定を尋ねられた。「とくに予定はない」と答えると、彼は「毛先生、僕たち卒業生のクラスのコンパに出ていただけませんか?」と言う。私は「君たち、論文はできたの? まだ終わってない学生もいるんじゃないの?」と答えた。学生の幹事らしい彼は、私のによく似た黒縁眼鏡を押し上げながら「先生、大丈夫です。みんな頑張ってますから」。結局、コンパに出ると約束した。

 大学には「合宿」と呼ばれるおもしろい制度がある。教師が学生を連れて田舎まで出かけ一緒に民宿に泊まり、昼間はセミナー、夜は宴会で語り明かし、教師と学生が互いに打ち解ける。すると、学生は気軽に先生に相談できるようになる。もちろん、今回の集まりは「合宿」ではない、普通のコンパだ。そして正確には、その日時点で彼らはまだ卒業見込み生だ。

 約束の時間どおり会場の居酒屋に着いた。中に入ってみて驚いた。学生たちは全員正装している。女子学生は結上げた髪に花を挿し、男子学生も羽織袴だ。この晩ほど和服がおごそかに思えたことはなかった。

 一人の女子学生が挨拶した。「毛先生は私たちの卒業式には出席できないと聞きました。でも私たちには一生の記念ですから、長い間教えていただいた先生に感謝したくて、卒業式の前ですけど、今日は正装して先生にご挨拶することにしました。お忙しいところありがとうございます。」

 こうしてまた学生たちが港を離れ旅立って行くのを目の当たりにするのは、大学の教員にとって感慨深い。学生たちがそれぞれの夢を実現させ、いつまでも幸せでいるよう願ってやまない。
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by amaodq78 | 2010-04-27 06:05 | ノスタルジックな時間

盲導犬

 今年3月、初春のある日、例年どおり地元の税務署まで確定申告に行った。例年どおり人が多く、行列ができていた。列の前のほうに一人の女性と盲導犬が並んでいる。犬は水色のポーチを背負っていて、そこにはご主人の名前と緊急の場合の電話番号が書いてあり、大きな字で「お仕事中です」と書いてあった。
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 盲導犬は主人の傍にぴったり寄り添ったまま進んでいく。もっと狭い場所でも彼女に忠実についていくのだろう。順番がきて税務署の職員が大きな声で彼女に申告書の説明をし、彼女が時折質問する。彼女が口を開くたびに盲導犬は彼女を見上げる。彼女が黙って話しを聞いている時は、犬は周囲を眺めている。

 狭いブースに一人ずつ税務署の職員がいて、出入り口にはカーテンがかかっている。盲導犬は入り口の内側をふさぐように、門番のように主人を守っている。申告の込み入った手続に必要な資料を取りに行くのだろうか、税務署員が席を立って盲導犬に話しかけた。「失礼しますよ。ちょっと通してくれませんか」

 犬はちょっと彼女を見てから、体をずらして道をあけた。

 盲導犬があんまり可愛らしかったので、私は犬の写真を撮ってもいいか主人に尋ねた。彼女は嬉しそうに犬に言った。「この人もあなたの写真を撮りたいんだってよ。おまえがハンサムだからだわね」

 税務署の用事が済んだ帰り道、もう一度あの盲導犬を見かけた。犬は主人を誘導して道路の、花が咲いている側を歩いていった。もう片側の、花を植えていないほうには見向きもしない。道を渡るときも、盲導犬は主人の先に立って、赤信号になると立ち止まり、頭を高く上げて、青になるのを待って渡った。渡り終えると、盲導犬は突然振り返って、主人と一緒に、今渡って来たばかりの道に一礼した。

 盲導犬と彼の主人は弱者かもしれないが、感謝のなかで生活しているのだ。先ほど見た盲導犬の穏やかなまなざしを思い出したとき、心が熱くなった。
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by amaodq78 | 2010-03-27 11:45 | ノスタルジックな時間

夕焼けの温度

 商社に勤めていたとき中国沿海都市への出張が多かった。北は大連の長海県、天津、塘沽から南は珠海まで、そのあいだには日照、連運港、上海、寧波、福建、アモイなどもある。毎年春と秋には漁師と一緒に海に出る。港へ帰ってきて彼らと酒を飲んだりマージャンをすることもあった。しかし、一番よく覚えているのは夕焼けだ。いつも思うのだが私は日の出より夕焼けを眺める時間がずっと長い。
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 大学生のころから朝型で、寮で同室だった友人が三十年経ったいまでも私のせいで眠れず仕方なしに早く起きて勉強した、と恨み言をいうほどだ。実際、早起きすると頭が冴えて勉強もはかどるが、これは朝焼けを浴びているから勉強がはかどるわけではなく、そういう意味では私にとって朝焼けは身近なものではない。

 いまでも朝型だが、相変わらず日の出を見ることは少ない。早朝に原稿や教材、ブログとツィッターを書くのが好きだが、机に向かっているかあるいは後の二つは旅先の列車やホテルで書くことが多いからだ。それに一日の仕事が終わったときに見上げる夕焼けは日の出よりずっといい。ああ、今日も一日仕事をした!という気持ちになる。すこしキザだが、夕焼けが今日も一日おつかれさま、といってくれるように思うのだ。いつも思うのだが夕焼けは温度があるから美しい。夕焼けを見るとき目を見開かなくてもよい。ただ目を閉じてまつ毛にかすかに感じるのだ。そうすると少しずつ温かさが伝わってくる。

 ところで、日本語で書くということは私にとってまるで遊びのように無意識に生活のなかに侵入してきたものであった。その場合、私をとらえた母国語の中国語と同じぐらい、日本語を書いた「実在」そのものが密接な背景として思い出される。

 近所の日当たりのよい散歩道、タバコの匂いがしみ込んだ私の書斎の古い椅子。覚えたての日本語をたどれば、新たな表現の世界が扉を開けて待っているという発見が私を夢中にさせたのである。そして、今日も日本語で書き続けている。
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by amaodq78 | 2010-03-02 06:18 | ノスタルジックな時間

日本語の静けさ

 日本語は室内にもっとも適した柔らかい言葉ではないか、最近何となくそんな気がする。部屋の中に静かに語りかけるには少なくとも英語や中国語より発達しているように思えるが、いざ公衆の前に講演を行うと、日本語が不向きであり、とにかく弱いものになる。

 人間は言葉で表現するときに、その多くは相手を前にして独白か、もしくは会話を続けなければならない。静かにしゃべればしゃべるほど、言葉の含蓄も大きいように感じられる。勿論、個人としてはこういう日本語に違和感を持っているわけではない。ただ、機会があれば、やっぱりシェイクスピアのように野外で叫び、奇声でも発しやすい言葉を聞きたい。

 いま、このようにして日本語にかかわり、すこし気になることを持ち出したのが恐らく私はこのごろ中国で『出家とその弟子』の舞台を目指しているからでもあるだろう。中国語訳を出版して以来、友人の舞台演出家に読んでもらったが、読後の感想を頂戴すると、真っ先にこれは間違いなく素晴らしい作品ですけれど、室内のおしゃべりが多くないかと逆に聞かされた。そう言えば、演劇文学では、いつも四畳半の部屋に対座しながら、静かにおしゃべりを続けるのでは、いわゆる鮮明な対立は起りにくい。

 かりに対立があったとしても、それをたった1ヶ所にずっと眺めつづける観客にとって、ドラマらしいものは成立しないだろう。

 例えば、親鸞と自分に反逆する一子善鸞の表現もそう。人間の生と死にあたっての静かなセリフが実にその多く迫真感を溢れ出すように思われる。日本語で演じられる場合に淡々と語られていくことは多いが、こういう特色も、いわば日本語が室内を頭において使われていることによるのである。開放的な空間で構想されなくても、それなりにみんなは通じ合えるように歩み寄りつつ、奥深いものを感じさせる。

 ところが、舞台の装置はまったく同じであっても、中国語は強弱のアクセントにともなって、時には誰かと突然くち喧嘩をはじめているみたいにメリハリは過剰である。そして、静かに語りかけたいセリフはここから少しずつ崩れ落ちそうになる。まるで戸外の演劇のようである。

 多少とも演劇の問題をはらんでいることを承知しているが、あえて日本語と中国語を室内と戸外に大別してみる。そして中国語訳『出家とその弟子』をいっそう心に染みるように中国での舞台をぜひ実現したいものである。
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by amaodq78 | 2009-11-28 09:11 | ノスタルジックな時間

写真に潜むその時

 ベルリン壁の崩壊は今月で20周年、しかし、僕にとっての記憶が、その直前のようすを語ったものを僕のカメラで何枚かの写真に収めたということである。今もたいへん懐かしく思っている。写真はその当時東ベルリンから見たブランデンブルク門の前の記念撮影と東ドイツの1989年の最後の軍事パレットなど。
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by amaodq78 | 2009-11-14 07:01 | ノスタルジックな時間

記憶と距離の絆

 JAL786便で大阪へ戻る。北京首都国際空港の登場口はE15番である。滑走路での離着陸から乗降口、ボーディングブリッジの接続まで眺めることができ、航空ファンにとって特等席といえるかもしれない。

 豫王墳という古墳の近くで育ったせいか方角には敏感である。単に「永安里」といってもその「東西南北」が気になる。そういえば通っていた永安里二小の呂志存先生はいまもお元気だろうか?黒板を埋め尽くす先生の書く文字は決して乱れることなく、楷書のお手本のようだった。

 記憶のなかの「永安西里」にもともと茶色の地色はないのに、いつからか茶色があらわれる。お寺の壁、あるいは葬礼など、過去を知る人に「豫王墳」を連想させるのだ。
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 私は過去の人間だ。少年時代とのあいだに距離をもつ人間だ。進学した119中学も永安里にあり、少年時代のときの流れはとてもゆるやかだった。まるで私の行く末を知っていて、いま慌てる必要はないといったかのように。つまり、当時の私がすでに今の「私」となる 「行く末」を予言していていたかもしれないということだ。

 距離は心の啓示である。同じ風景も、距離があるからこそ記憶が濃縮され、希釈されもする。それが人に対してならば、なおさらだ。距離は人と人の感情をつなぐたった一つのものなのだ。

 飛行機は黄昏が近づいたころ定刻どおりに目的地に着陸した。そして家路を急ぎ、もうすぐ神戸の家にたどり着くというときに、ふと目をやると、あるおじいさんがレジ袋からキャットフードを取り出していて、すぐに二匹の野良猫がどこからともなく駆け寄って来た。

 この場面に遭遇して私は錯覚を起こしそうだった。なぜなら先週北京の自宅へ帰った日にも、家の前である中国人のおじいさんが同じように袋から餌を取り出すのを見たからである。そして北京でも同じように、どこからともなく野良猫が駆け寄ってきたのだった。そのネコは黒猫だったが、ベトベトするような黒光りではなく、ひとすじの黒煙のようだった。
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by amaodq78 | 2009-09-26 05:36 | ノスタルジックな時間

心の中の風景

 外へ出てスケッチをするのは、趣味に過ぎないのだが、幼いころを思い出す。ときにはひとりで遠いところまで行った。

 油絵の道具箱を抱えて、いい場所が見つからないときには座ってまず空を見る。空を見ていた時間はとても長かった。当時、北京の豫王墳に住んでいて、家は二閘河沿い(現在は通慧河というはずだが)にあった。近くには大きな製粉工場があって、夏になるといつも変な匂いがした。臭いというわけでもいい香りというわけでもなく、とにかく変だった。

 それから数10年の時が流れた。今日の午後もおなじように近所にスケッチするポイントを選んだ。油絵の道具は持たず、少年時代のように大げさなものではない。じつは絵を描くとき使っていた小さな木箱は中学生まで使っていたが、その後触っていない。小学校の美術の先生は薜先生といって、スマートな身体に黒縁の眼鏡をかけていた。私と話をしているときに笑うととてもやさしい顔になって、幼稚園で世話をしてくれるお姉さんみたいだった。先生はいまも元気にしておられるだろうか?

 中学の美術の先生はあまり印象に残っていない。たぶん運動場でサッカーばかりしていたからだと思うが、かなり長い期間、一人で静かに地面に座って絵を描くということが好きではなかった。きっと少年時代の反抗期だったのだろう。しかし、最近中学時代の先生に会ったときに聞くと、当時の私はちょっといたずらっ気があったものの、やはり内向的なこどもだったそうだ。

 雨があがった。夕陽が海面を紅く染めている。空を仰げば、ちょうど雁の群れが飛んでいくところだった。なぜか一瞬、目の前にあるのが日本の神戸の海岸であることを忘れそうだった。自分が長年渡り鳥のように旅を続けているのも忘れて、着地点を探し当てたかのような気持ちになった。しかしまた、それほど帰る場所を渇望しているようでもないのだ。

 風景は毎日輝くときがある。私がこういうのは、人が風景のなかに入り込んだときにはじめて輝きを感じ取ることができるからだ。
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by amaodq78 | 2009-06-13 19:39 | ノスタルジックな時間

蕾のある桜の季節

 午前中、北京の二環路を建国門方向へ向うバスに乗った。花市のあたりで道路の南側に建つマンションの敷地に一本の桜があり、それがとても大きくて、視界にいきなり飛び込んできたのだった。あっという間に通り過ぎたが、その桜がそこでは現実の世界から離れて漂っているようだと感じたのだった。
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 風が強かったからなのかも、錯覚なのかもしれない。私は幼いころよく通恵河のそばで遊んでいた。なかでも北京駅の近くの鉄橋で、駅を出発したばかりの鉄道列車が近づいてくると、子供たちは全員といっていいほど歓声をあげたものだ。列車がギーギーと車輪を軋ませる音を聞きながら、万里に広がる大空を行く先頭車両を仰ぎ見て、なんて大きいんだろうと思っていた。

 小学校のころ先生が言っていた「人類が列車を発明した時代には、だれもが列車は怪物だと思った」と。私たちの少年時代でもそう思った。鉄橋の下から、大量の真っ黒な鉄の塊、鉄の円盤、鉄の玉、鉄の鎖が必死に動いているようすが、視界の隅まで氾濫しているのだ。この印象のなかに眠る北京と、たったいま見た一本の桜ははっきりとしたコントラストをなして私に迫ってくる。記憶のなかからやって来たようでもあるのだが、ただ瞼に投入された映像にすぎないのかもしれない。

 もう長年のことだが、春になれば花を見る。日本に住むようになって、見るのは自然と桜になった。満開の姿を、萎れ散りゆく姿をみる。生命を感じる瞬間とは盛衰に分けられるものではない。桜のみごろは長くても十日間ほどなのだ。

 桜の季節に不思議でならないことがある。私が春に北京に帰ってくると日本の桜は満開になり、日本に戻ると桜はそれを待っていたかのように憔悴しはじめることだ。まるで花を咲かせるのに疲れきり、もう咲くのはイヤだといっているような感じなのだ。

 上海電視台ドキュメントチャンネルのトーク番組『風言鋒語』のキャスターは李蕾さんという。とてもきれいな名前だ。「蕾の数だけ花が咲く」のだから。

 今年から、彼女の番組にレギュラーとして出演することになっている。時間があれば、こうした雑感を彼女に話してみようと思う。

 (写真の中央↑左はゲストのトラベル雑誌の編集長廖敏さん)
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by amaodq78 | 2009-04-19 17:00 | ノスタルジックな時間