ある中国知識人の告白に寄せる思い

旧正月「春節」のある風景

  日本に長く暮らすものにとって、「春節」の一時帰国は格別な意味がある。単にお祭り気分で沸き立つというだけでなく、どこかで昔の記憶を蘇らせることができるからである。私の場合、中国を離れたのは13年も前のことで、それ以来、故郷北京で一家揃って春節の餃子を作ることなど一度もなかった。ミレニアムにあたる今年こそ、久しぶりに春節を北京で過ごそうと思いついたが、戻ってみると、私の記憶とはずいぶん違っていた。

  まず、昔のように大空に響き渡る爆竹の音が聞えてこない。第二環状線がメインストリートとなり、華やかなネオンが並んでいる。どこかで花火を打ち上げているらしく、音を伴わない光の線がさまざまに形を変えながら空に向かって射している。目抜き通り王府井南側の新築のビル群は、立ちはだかる鋼鉄の壁のように長安街に君臨している。かつての木造建築混じりの町並みは跡形なく消え去ってしまい、取り残されたような寂しさが幼心の記憶にとって変わりつつあった。昔は大晦日ともなると街全体が静まり返って、誰もが半日勤務を終えるといそいそと家路を急いだものだ。ところが今は、繁華街では大晦日にも店を開け、新年を外食で迎える客や家族連れへの呼込みが延々と続く。そして夜ともなれば、三里屯あたりの酒巴(バー)通りが週末のような賑わいを見せ始める。

  ある友人が「大年三十(大晦日)だからというわけじゃなくて、夜はいつも盛り上がるよ」と‘北京のいま’の案内役を買って出た。彼は私と違って大学卒業後、海外への留学を断わり北京に本社を置く英文紙「チャイナデイリー」に編集者として勤めるようになった。それ以来、海外から一時帰国する友人たちに北京を案内するのがこの上なく楽しいと言う。なぜなら、しばらくこの街を離れた人たちが、昔と変わった光景を見て目を丸くして感嘆を洩らす様子がたまらなく面白いのだそうだ。それほど北京の変貌が人を唖然とさせるものであることは認めるが、ただ外観のみを捉えて感心をするのもいささか単純にすぎるのではないか、と私は思った。

  「いやいや、なんの、人の心だって激変してるさ」と答えながら、彼は私をある場所に連れて行った。北京の東にある「滾石倶楽部(ロッククラブ)」。若い人の溜まり場だそうで、夜通し踊れて人との出会いも求められるというスポットである。ここのところ密かに話題を呼んでいるのが、時々姿を現す北京のパンクバンドの存在だそうだ。

  薄暗い階段を登りドアを開けると、突然大きなホールが目の前にあらわれた。炸裂する音楽に乗って、激しく身体を揺らす若い男女。その肉体から黒く光って流れ出る汗が私の視線を捉えていた。ステージで歌っている男は、モヒカン刈りで上半身は裸、頭のど真中を柵のように立てた立派な髪は金色に染めていた。ここは、春節のムードを鮮やかに演出した北京の街並みとは全く別世界で、熱気に包まれながら踊る男女は、大晦日や春節とは無関係に見えた。友人は言う。

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  「ここは、狂気が走ってるのさ。外の春節とはまったく関係ないよ、毎晩踊り狂って、男女が抱き合い、最後は叫びまくっているよ。まぁ、何にかの発散だろうね」

  私にはなんだか理解できない気がして彼に聞いてみた。

  「ところで、ステージで歌っている彼はいったい何を歌っているの?皆は大声で何を叫んでるわけ?」すると、彼は笑いながら答えてくれた。

  「もうすぐ歌詞カードがステージから投げられるから、それを読んだらきっとわかるよ」

  この時、床を踏み乱す皆の足元から熱気がますます上昇してきて、私の両眼に大波のように押し寄せてきた。人々がホールに響きわたる音響のリズムに乗って上へ上へと伸ばしていた腕は、一種の魔怪に化けたように、まるで旋盤工場のピストン連動装置みたいに上下に動き始めた。それを眺めながら、この光景がかつて私が北京で過ごした春節と、どれだけ異質のものなのかを実はまだあまり意識していなかった。そう、あの歌詞カードを手にするまでは……。やがて、ステージからばら撒かれた白いカードは大雪のように舞い、ひとひらが私の手にさまよってきた瞬間、思いがけない内容が私の眼に飛び込んできた。

  長時間の沈黙を通じて力を貯め込もうと試みる
  君は既に行動した……
  同志よ!君は訳の分からないまま政治の舞台をひた走る 
  君は道を作ってあいつらに告げる為に、
  短時間の凄まじいうなりを通じて経験の石碑を築こうと試みる
   “乗客の同志たちよ、十二号車が火事だ、十一号車の人、
   まもなく火が燃え移るよ!”
  諸君、俺たちは地下にいる、地下の部屋ではなく、通路にだ
  君は詩人ではない、君は政治が好きではない、俺もパンクじゃないし
  俺たちはただ第十三号車に乗っているさすらい人さ
                          パンクバンド「ノー」冤罪より

  ステージの歌声はこれを歌っていたのかと思いながらボーカルの男性に目をやる。彼はフロアを埋めた客の喚声ですでに興奮状態に陥り、頭が動きだしたばかりのモーターみたいにかなりのスピードで回転していた。こんなに若い彼らが、このような場で国の政治をからかったり、自らのメッセージを送ろうとすることは、60年代生まれの私にとって想像もしなかったことだ。彼らと同じ年齢の頃、われわれは毛沢東語録の暗誦や中国共産党への讃歌以外には、誰も反対意見を口にすることのないように従順に教育されてきた。それはまさにあの時代特有の、批判勢力は断固として封じ込めるという凄まじい圧力のせいだったのだろう。私のこのような感想を聞くと、同世代の彼はこう言った。

   「あの時代に比べたら、今の彼らは言いたい放題言えて幸せだよ。最近は妙なことに、彼らは有識者の代弁者のように、すごいことを言っている気がするよ。ほら、歌詞を見てみなよ。これなんかまるで例の李文章を書いた李慎之先生の気持ちそのものだよ」
 彼は右手で拾い上げた紙を私に見せながら、李文章とは、このごろ中国知識界に出回っているある未公開の文章だと説明してくれた。口惜しいことに、春節のこの「滾石倶楽部」で聞くまで、私は李文章なるものの存在を知らなかった。

李慎之先生

  私は日本に来る前に、北京の建国門にある中国社会科学院の哲学研究所に勤めていた。偶然にも、当時の副院長である李慎之先生と同じ宿舎区に住んでいた。宿舎区には、五棟の建物があって、五階建ての棟は一般の職員や助手研究員レベルの住宅として分配されたが、四階建ては知名度の高い学者達の住いになっていた。当時、李先生のご近所には、文学評論家の兪平伯教授や言語学者の呂叔湘教授、またドイツ文学者の馮至教授もおられた。近年来、ご近所の教授達は相次いでこの世を去り、李慎之先生は80才近くの老人になられた。今でも、はっきりと覚えているのが、李先生が毎日宿舎区(普通は大院と呼ばれるが)の受付兼管理員室まで歩いて夕刊を取りに行かれたことだ。ちょうど私が夕刊を取りに行く時間と同じ時刻なので、毎日のように李先生とお会いした。

  次第に、李先生は私の顔を覚えてくれて、時には雑談をしながら、その日の夕刊に面白い記事があるかどうかなどの情報も交換した。勿論、李先生から見た当時の私は、まだ研究所に来たばかりのひよっこに違いなかった。その頃、李先生は中国社会科学院のアメリカ研究所の所長も兼任し、中央政府の外交政策にも携わっていた。何かをしゃべりだすとすぐ興奮ぎみになるので、誰かが止めないと話が延々に続くようなことが二、三度あったように憶えている。当時は、中国の改革開放政策が打ち出されたばかりだったので、実際に議論の高ぶる時期だったのは確かである。李先生は今も、昔のように夕刊の時間に誰かと議論をするのだろうか?私はそう思いながら、久しぶりに宿舎区の受付部屋に行った。当番の管理員さんとしばらく話をしていると、そこへいつもどおり李先生はあらわれた。よれよれの外套を着て、手編みのショールを巻き付けていた。黒い皮靴はかなりくたびれて踵も擦り減っていたが、昔のようにゆったりとした足取であった。

  「毛君も実家に帰って春節を過ごすのかね?まぁ、北京の冬は相変わらず寒いけどね」
と言いながら元気そうな顔からは笑みがこぼれていた。

  李先生と新年の挨拶を交わし、雑談をしているうちに、私の頭に「滾石倶楽部」のことが浮かんだ。勿論、考慮すべき中国の政治情勢もあったので、ここで例の未公開文章のことを軽々しく話題にするつもりは毛頭なかったが、不思議とくつろいだ雰囲気が漂っていたので思い切ってご本人に訊ねてみることにした。

   「最近、李先生のご発言がずいぶん話題になったようですね」
   「ええ、それは今の中国に皆さんが関心を持っているからでしょうね。毛君は、老人の独り言としてあれを読んだらいいよ」

  先生の口ぶりはごく軽く、李先生本人の口からこのように聞かされると気持ちが幾分楽になった気がした。その夜、私はあの未公開文章をもらいに、李先生の自宅を訪ねていった。

  この時、室外の温度は、マイナス5度だった。
  
   国慶節の夜に、老人の独り言が続いていた

  李慎之先生がこの文章を書いたのは昨年の10月1日。中華人民共和国誕生50周年を祝う行事が北京天安門広場で盛大に行われたちょうどその日であった。誰に対して書いた訳でもなく、ただ自分の人生を回想するかのように、手に握った筆と共にその夜を過ごしていた。後にこの独り言を綴った文章を何人かの友達に見せたところ、その感動は皆のこころに響き渡った。それが、今年になって誰かの手でインターネットに書き込まれ、欧米のマスコミにも紹介され、一気に広く読まれるようになったのだろう。それはさておき、李先生は、あの寂しい夜に一体何を表現しようとしたのだろうか?それを見ることにしよう。

  「雄大でかつ威風堂々とした閲兵式、万歳を歓呼する群衆、歌や踊りを披露する文藝団員たち、大地に響き渡った礼砲の音……ありとあらゆる点において、すべては酷似している。けれども、ただひとつ違うのは、五十年前は実際に私があの観覧スタンドに立ち直接この眼で見たのだが、いまとなっては、テレビのブラウン管を通してしかその盛況ぶりを感じ取ることができなくなってしまったことだ。私はすでに高齢の老人で、身体にも障害が生じている。人前での立談や、自分の足で立って歩くことはできるのだが、あれほど長い距離を歩いたり、あれほど長時間立ったままでの観覧は、今の私には到底無理である。しかし、何よりも大きな違いは、私自身の気持であろう。この頭脳から生まれでる思想は五十年前に比べると、全くと言っていいぐらい変わったのである。

  ・・・・・・・・・(続き→『世界』2000年6月号岩波書店掲載)


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by amaodq78 | 2006-09-04 00:43 | 新聞雑誌掲載文
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