日本仏教から学ぶこと

 日本のことだが、約800年前法然、親鸞その他の法然門下の人たちが「念仏停止の令」によって流罪などの刑を受けた。

 それはこれまでの仏教が修行を積み人間の煩悩を滅して救済されるという基本にたっていたところに、ひたすら念仏することによっていかなる者も救われると説いた専修念仏に対する仏教界の批判が強かったからであった。

 しかし、元来、仏教はいかなる者も苦悩する存在であり、それを救わんとすることが目的である。それが修行をつむことによって救われるというのであれば、ごく限られた一部の者にしか可能にならない道ということになる。さらには、いかなる修行を積んでも、人間のもつ煩悩を断ち切れないという現実に対して、それは修行が足りないと切り捨てる形でしか理念を保ちえないものとなっていた。

 しかも、民衆は苦しみの解消を呪術的、迷信的なものに頼らざるをえなく、民間には迷信的信仰があふれていた。そういう中にあって中国の曇鸞、その後を受けた善導の浄土教は、いかなる者も本願(如来の真実なる願い)にめざめ、その本願が阿弥陀仏として私達に働きかけていることを「名」を称えることを通して、生活の中にとりこんでいくことによってすくわれていくという道を説いている。

 つまり、一般の大衆は山にこもったり、出家したり寺に入るのでもなく人間の普通の生活をしながら常に如来の真実を念仏を称えることによって気付かされ、すくわれていく事に大きな喜びと安らぎを得た。

 従って、国家が念仏を停止しても次第に地下水の如く民衆の中に念仏は浸透していった。こうした庶民のよりどころとなる仏教の本願念仏の信仰は、また常に邪教、迷信との対決でもあった。

 人間は常に我執、我欲に満ちているため、自分に都合が良いと思われるものは何でも取り入れていこうとするが故に、それにつけこむ迷信はいつも人間を惑わす。また、そういう教えを説くものは、自分があたかも真実者であるかの如く吹聴し人をだます。本願念仏に照らされる者は、そうした独善的貴人信仰を破る目を仏からたまわっていく。また、迷信にとらわれる自らの中の弱さに常に気づかされ、真実なるものに呼び戻されていくことが、生活の中の念仏の実践となる。

 それを「念仏は無碍の一道なり」と親鸞はいっている。人間の理知分別心を破るものこそ本願の念仏だというのである。こうした念仏者の心は無学の大衆をして仏の智慧によって生きる者としていったのである。

 このような日本仏教の浄土教の流れは、元来は中国から学んだものであるが、やがて弾圧を受けても民衆にひろまり、今日では日本の重要な思想宗教ともなっているのである。

 このような動きが今の中国宗教問題でいくつかのヒントを与えていると思われる。

 1. 普遍的宗教は個人崇拝に陥らない。
 2. 信仰によって病気が治るというのは副産的であっても主題ではない。
 3. 自己を絶対化しない。現実にある人間が、超世間的存在又は意識をもつということは危険である。

 (本稿は中国仏教会議での筆者発言を要約したものです)  
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by amaodq78 | 2007-04-06 06:24 | 新聞雑誌掲載文
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