中国の映画に見る「悪人正機」

 親鸞聖人の教えは、中国の社会にもあるのだろうか。『歎異抄』を中国語に訳した私だが、時々考えながら、映画『芙蓉鎮』(配給・東光徳間)に注目したい。
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 物語は、中国の南方の片田舎に展開された。米豆腐の商売で成功を収めた胡玉音(フーユイイン)という女性が、資本主義のレッテルを貼られ、さらに文化大革命の嵐のなかで迫害されていくという話を、1963年から、文革を経て、1979年のその終結までという時間の流れの中で描いたものであった。

 新しい富農として罰を受けた彼女と、もともと右派として疎外され、文革によってさらに追い落とされた秦書田(チンシューテェエン)が、雨の日も風の日も雪の日も、芙蓉鎮の町の石畳を箒で掃き続けてきた。世間には悪人とも言われた彼らは、気持が沈むことなく、箒一本でもワールツのテンポに乗って、掃きながらダンスも楽しめた。そんな彼らを資本主義的ブルジョアジーと指弾する人もいた。

 もともと国営食堂の女店主だったが、美人で愛嬌がよく働き者の胡玉音の店が繁盛しているのを妬んで、何かあったら彼女を叩き落とそうとしていた。それが、政治工作班長になって権力を握ったとたんに、胡玉音の店を摘発する。結局、この女店主も時代に翻弄され、自分でも批判されたわけだ。民衆の前に、彼女はやたらに、「私はよい人だよ、彼らのような悪人ではないんだ」と繰り返した。自分は善人だと主張した彼女には、ある種の自力作善という構図もここで垣間見ることができる。

 やがて10年の刑を受けた秦書田と妊娠中の胡玉音と別れる時がきた。ここで、秦さんは大きな声で叫んだ。「どんなことあっても生き延びよう。畜生になっても、何になっても必ず生きるんだよ!」

 この感動的なシーンは、多くの中国人の胸を打った。激動の時代を生き残った人々ならではの思いが込められていると思われる。

 『歎異抄』の第二章には、このように書いている。いづれの行もおよびがたき身なれば、とても地獄は一定すみかぞかし。

 いわば、地獄はわれらの住み家なんだという思想も、あの激動中国にもあった。人間はどんなに追い落とされても、生きるだけはあきらめてはいけない。悪人であっても、救われる道があるから。この映画について、知人監督の謝晋(シエチン)は、こう説明している。『芙蓉鎮』は、文化大革命の時代、そしてその後と、十数年間にわたって受けた痛手をある小さいな村を通して描き出したものだ。重要な登場人物は八名、出て来る人家の戸数は数軒しかないが、この裏側に数千万の同じ苦しみを持つ人々がいると言えよう。
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by amaodq78 | 2008-03-22 14:31 | ノスタルジックな時間
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