今ではそうであること

 ここ数年、吉田富夫先生とはしょっちゅう顔を合わせている。初めて日本にやってきた20年前と比べるとお会いする回数も、いっしょに飲酒談笑することも格段に増えた。

 お会いする回数は増えたけれど、会うことの楽しさ自体は、今も昔もおおむね同じなのだ。いや、思い返してみると、かつてお会いしたころの方が面白かったかもしれない。あのころ、金がないため、留学の継続を諦めたちょうどそのころ、指導教官の清水正之先生は私を理解してくれていた。「君のような人が、日本社会をよく理解してくれることこそ、すばらしいことだよ」と言ってくれたのだ。

 そこで私は三重大学を退学して、エビと魚を扱う会社に転身した。3年の間、毎日真夜中に起き出して、菰野町湯の山温泉から名古屋の魚市場に車を走らせた。車を停めるころ、空はやっと魚の腹のような色になった。

 魚屋というのはなかなか刺激的な仕事で、冬に外一面雪が降っていたら、すぐにウマヅラハギが売れると予測できる。寒いと多くの人が鍋を食べたくなる、だから、ウマヅラハギさえ確保できれば、飛ぶように売れること間違いなかった。

 そのころ、三重大学の多くの教授は京都から来ておられた。私は彼らと学問を語ることが好きで、ちょっと高雅なことだと思っていた。魚市場のセリ声に慣れた身には、茶を啜りながらとりとめのない話を聞くのは、とても楽しく感じられた。ただ楽しいだけにとどまらず、教授たちの京都の自宅にもおじゃましたものだ。吉田先生と面識を得たのもこのころのことだった。先生は私がお訪ねした教授たちの友人だったのである。

 ある年の元旦、私は小型トラックを運転してわざわざ京都まで行って、先生方の家に一軒一軒魚を届けたことがある。

 魚は大きなマナガツオ、というのは、この極めて美味なる天然魚は年々少なくなっていたからだ。教授先生方に、私がいつまでもただの聴講生ではないと分かってもらうために、機会をとらえて自分の本領を示しておくのは、当然のことだった。もとより当時の私の本領は、エビや魚を売る以外に、全く何もなかったのだが。

 両手に、氷で冷やしたマナガツオの箱を抱えて、私は始めて吉田先生宅を訪ねた。家にはいると本だらけで本棚は天井まで届いている、なにか異様な雰囲気だった。一人は魚やエビを売っている私、一人は学問をしている吉田先生、この二人がいっしょにいることは、ちょっとした滑稽だった。

 酒を腹に収めながら、吉田先生はずっと私の話を聞いていた。魚や商売の奥深さ、未明に仕事にでて9時頃にはもう熱燗で一杯やって、それから後かたづけをして仕事を終える、そんな話だ。こんなことを話していると、まるで別の人種のようで、とりわけ吉田先生にしてみれば、当時の私はたぶん世間の生活を知らない北京の若造に過ぎなかっただろう。もちろん世間とは、日本のものだが。

 それから日が経ち、私は水産会社を辞めて、ある商社に勤めた。家も四日市から神戸に引っ越した。いうまでもなく吉田先生の京都にも近くなった。

 この間に大小さまざまな理由で、私たちは毎年会う機会ができ、さらに私が商売から文筆に転身したので、話題もだんだんとエビや魚から吉田先生が研究しておられる中国文学へと変わり始め、ついに私の得意話だったエビや魚も、文学にその地位を譲ったのだ。

 熱燗を一杯やると、吉田先生は滔々と話し始める。魯迅の研究と郭沫若から話し始め、銭鍾書が先生に宛てた私信を持ち出して見せてくれたり、とにかく中国について話し始めると、酒はいよいよ杯を重ねるのだった。吉田先生は大部の中国当代小説を何冊も翻訳しておられる。この十年余りの間に、『廃都』『土門』『白檀の刑』『四十一砲』などが日本で出版されたが、積み上げれば随分の高さになるだろう。

 いま思い返してみると、私が商売から身を引いて中国語と日本語の著述に力を注げるようになったことに対して、吉田先生の影響が那辺にあるかはっきり言えない。具体的にどういう方面か、これも分からない。しかし、中国文学について話が及ぶたびに、いつも興趣旺然、日本の読書市場に中国文学の分野を確立しなければならない、という先生の情熱は、しばしば私を感動さえさせるのだった。

 吉田先生や先生と同じような中国学者の努力を通じて、日本読書界の中国文学に対する需要は大幅に増え、かつて非主流に属していたその販路も随分と面目を新たにしてきた。

 その他にも書き留めておく価値があるのは、ここ数年、吉田先生といっしょに中国へ行って、莫言、史鉄生、さらに余華などと何度も直接会って交流したことだ。どの会見もいつも心温まるものだった。去年(06年)の末、私は先生に李鋭の小説『太平風物』を推薦した。李鋭本人と東京の出版社とも連絡を取り、吉田先生にご出馬願ってこの作品を翻訳されるようにお願いした。一週間もしないうちに電話を頂いた。「毛君、これは私がやるよ。」

 いま、先生の了解を得て李鋭に当てた先生の手紙の一部を写しておこう。「私たちは農民の生活をしたことがあります。汗を垂らして田植えをしたことがあります。これこそ私どもの縁でしょう。あの鎌も斧も鍬の刃も、40年前私が自分の手に持ったことのあるものと全く同じです。しかし現在の日本の農村では基本的に消滅しました。」

 吉田先生はそういう人だ。広島県の農村で育ち、いまに至るも、中国文学について話をするときは、いつでも郷土の息吹が濃厚に漂っている。この点は他の中国学者からはなかなか見いだせないものだ。何年か前、私は莫言といっしょに広島の先生の実家に行ったことがある。先生の弟さんは農民である。私たちと別れるときに、彼はトラクターの傍らに立ってひとことも言葉は発しなかったが、ただずっと私たちに向かって微笑んでおられた。

 聞くところによれば、中国であれ日本であれ、現在ではあの大きなマナガツオを捕るのはとてもむずかしくなっているそうだ。しかしもしまた手に入るなら、私は再び一箱を抱えて京都の吉田先生のお宅におじゃまして、熱燗を頂きながら中国の文学について存分に語り合いたいものだ。(浅野純一・訳)

      『吉田富夫先生退休記念・中国学論集』P69-71 汲古書院 
      2008年3月1日発行
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by amaodq78 | 2008-03-03 09:16 | 文事清流
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