『歎異抄』を中国語に訳して

  『歎異抄』との出会い

  『歎異抄』を初めて読んだのが日本にきてから2年目のことでした。1988年の春頃だと記憶していますが、その当時、また留学生の身分を持つ私は、津市に下宿していました。高田本山の専修寺まで自転車に乗って5分程行ける距離なので、三重大学の受講があるたびに、わざとお寺をぐるっとまわっていきました。最初は、下宿先の大家さんが毎朝お寺参りに行くのを見て、ついて見に行くつもりでしたが、本堂の正面玄関ではじめて拝見した親鸞上人のお顔は、私にとって非常に驚きでした。


  輪郭ガッチリしたお顔には、一種の何とも言えないような狂気を放出するかのようにも見えますが、伝統中国で拝まれるぼっちゃとした仏様のお顔とあまりにも似ていないのではありませんか。私にとって、まったく新しい日本人像そのものと、ごく日常的な生活の中に遭遇したとも言えるかもしれません。それを機に、専修寺の親鸞像をいつも思い浮かべながら、歎異抄を読むようになりました。

  日本人の心を探る

  私にとって、歎異抄の大きな意味がその大衆、いわば庶民の実践性にあることです。鎌倉時代は日本史上にも非常に珍しい、戦乱の時でした。特にその前の平安朝中期から、政界において藤原氏一族の勢力によって独占されたわけですが、ほかの出世道と言えば仏教界だけじゃないかと思われます。そこで、あの有名な比叡山に優秀な人が集まり、まるで立身出世の機関のようになったのです。それは、実に最高学府とも言えますが、天下の秀才がここを目指して集まってきたのです。

  親鸞の生涯の師であった法然は、十三才で比叡山に入りました。後に「智恵第一の法然房」と言われたようです。その当時、仏教は進級するための受験科目みたいなものですが、はげしい受験競争があったに違いがありません。結局、経典や語釈をどれだけ憶えているのかのテストだけとなりました。学問盛んになったとしても、仏教本来の目的から隔たることにつながってしまいます。

  これに対して、日本仏教界の革命家と言うべき法然は、口誦念仏に要領を絞り込んで、専修念仏の教えを導入しました。これは、いままでの瞑想やもろもろの行を通すことではなく、ひたすら南無阿弥陀仏と口に出して唱えること自体が念仏の真理とします。従来の浄土宗は宗教作法に基つく自力修業の所謂聖道門的な煩雑の手順を重視してきましたが、そのため素朴に極楽を憧れ求める一般大衆が結果的に極楽から拒否されることになります。こう言った立場から見ると、専修念仏と言うのが、大衆を解放するものとなったのです。

  法然はこの根拠を中国の名僧善導大師の「観経疏」の要旨を借りて裏付け、権威づけたそうです。親鸞も九才から二十年間若き日を比叡山に過ごしましたが、当初堂僧としてあらゆる戒律を守り、修業を積み、仏のこころを感得しようと努力をしました。ところが、まわりの特権臭や偽善性、保守的無気力さなどを感じて、真剣に考えれば考えるほど悩みが深くなったのです。彼は二十年代特有の懐疑、抵抗、批判の精神があったので、それより自分の体から涌き出る戒律に耐え仕切れない欲望を抑えようと思っても、抑えられないと言った反動力が相当大きかったのです。懸命に断ち切ろうとしても、断ち切ることのできない煩悩のために苦しんでいました。

  悲しいきかな、愚禿鸞、愛欲の広海に沈没し、名利の太山に迷惑す  (「教行信証」信卷)

  汚れた現実の中で、理想追求の意思とおのれの欲望とのギャップを感じたのです。自分はこのままでは往生できないじゃないかとおのれの生き方に疑問を問いかけました。結局、比叡山を去ることを決意、その後生き方を自得するため、京都の吉水の六角堂で百日参籠の行に入りました。六角堂の本尊は救世観音で、しかも聖徳太子の化身だとされています。昔から聖徳太子を日本仏教の初心、原点として讃仰していたらしい親鸞は仏教を百八十度転換で改革の手掛りをこの百日参籠中に掴みたかったのです。つまり、仏教は特権階級に占有されてはいけない、悩める一般大衆の救済に唱え台として、すべての人間が阿弥陀仏の本願を信じれば救われます。そのため、阿弥陀仏という名を繰り返しとなえます。自分のはからいを捨てよ、愚かなる人に帰れ、(自力の行を捨てて本願に帰す。「教行信証」より)ということです。

  念仏だけで極楽浄土へ往生の約束が得られると、ますます庶民の人気は高くなった。本願に帰すということは、まず自分の意思で極楽を求めることを否定しなければなりません。この否定から出発して、他力の信心を阿弥陀仏からいただきます。否定というのは、そもそもマイナスのことではありますが、自分の力で人間の持つ煩悩を断ち切ることは不可能であることに気づきます。これはむなしい一種の絶望に思えますが、そこに如来の本願によって、煩悩のみのままにすくわれるという他力の救いに託されることになるのです。簡単に言うと、否中有信とのことです。

  マイナス思考を重視

  私は、日本で高校生に英語を教えたことがあり、いまでも、その時のことをおぼえています。高校生に英語の質問票を渡します。その質問のタイトルは、share with your dreamと言ったものです。「貴方の夢を共にしよう」という意味です。その中でrespectable futureとunrespectable futureと二つの希望項目を書いてあります。つまり、未来がある夢と未来がない夢とのことです。高校生に自分の思うとおり回答してもらいました。医者、科学者、大学教授などの明るく未来いっぱいの夢を書いた学生がわずか4人ぐらいで、大半の7人も自分の夢を退学、交通事故、解雇、刑罰などに記入したのです。

  私は驚きました。彼らはなぜそう書いたのかと聞くと、その答えは非常に明瞭で、こう書いておくことで気持ちが楽になるからだというのです。自分の未来に悩むことなく、煩悩を打ち切った精神で、人間存在の底、否定面から発想したわけです。こうした例を踏まえて、日本人の庶民像を捉えるのではないかと考えました。

  極限状態からの新生、或いは再起といったものは、中国人にとっては、ひとつの悲情的な感覚を与えるかもしれません。私は小、中学校の時代がちょうど、いまの改革開放の直前、世界に窓を開けようとする以前にあたりますが、その当時、私達の夢といえば、国から与えられた職業、もしくは勉強の任務を全力尽すことでした。「人民のネジになろう」という言葉が流行しており、多くの青少年が国と自己を同一視していました。国家の発展は個々人々の夢であったのです。思えば、私が日本で教えていた高校生達とは著しく異なっています。そこには、政策の違いだけではなく、日本人と中国人との宗教観の相違が秘められていると思われてなりません。

  古代仏教の否定

  「歎異抄」には、反の立場から、つまりマイナスより正とプラスのことを思考する傾向があると考えられます。否をいうのが、重要なことになりますが、これは中国人にとってたいへん理解しにくいかもしれません。

  善人なをもて往生とぐ、いわや悪人をや(「歎異抄」第三章)

  これは悪人正機と言いますが、従来危険物、毒などと批判されています。この主張は、人間的反省を伴なわない時に確かに悪事を働くのです。「本願ぼこり」というのもそうだと思います。

  善と悪は古くからのテーマです。古代ギリシャの哲人アリストテレスは、すべて人生の目的を実現する助けとなるものは善行であり、そうでないものは悪行であると考えたのです。近代の哲学者ニーチュは、人の意志が善悪の唯一の基準であると言っています。

  ところで、「歎異抄」が提出している悪人正機の悪人とは必ずしも悪い人をさすわけではありません。それはひとつの抽象概念で、広く漁業や狩猟に従事し、殺生をもって生業とする一般の人々を指します。まだ仏門にまだ入っておらず、生活の上で欲望の支配を受けている意識状態であると理解してもよいのですが、たとえ万人の認める罪人であっても、自らの悪に気づき深く後悔し、如来の真実によって救われると説きました。それがいわゆる正機そのものです。こうして往生を遂げます。世の中には、善人と悪人の区別が存在します。善人の成仏は言うまでもないのですが、世の中をよく変えるには、悪人を善に向かわせることのほうがより大切です。

  中国で東郭先生の古話があります。いつか自分は悪人になるのではないかと毎日怯えながら暮らしている老先生がいました。その人は、外にでると蟻一匹も踏まないように細心の注意を払いながら歩く始末です。悪事に対する戒めを説いた話ですが、このような悪への恐怖感とは異なり、「歎異抄」では積極的な優導により、悪を捨てさせ善に従わせようと働きかけます。なぜなら、阿弥陀仏の本願は優先的に悪人を救うことにあるからです。言い換えますと、他力に頼る悪人は、自力に頼る善人よりも阿弥陀仏の救いとなり得るのだ、ということです。一般の宗教論が善の宣揚に重点を置いていますが、「歎異抄」では悪の放棄に一番の重きを置いているのです。

  勿論、鎌倉仏教の開祖達に共通なところがあります。それは古代仏教を否定した思想にあります。中でも親鸞の悪人正機というのが、もっとも厳しく古代仏教を否定したわけです。この流れを歴史の視野で研究した結果がたくさんありますが、ひとつはっきりとしているのは、いままで経典や語釈を主流にし、諸寺院が僧兵をかまえ、派閥争いの場所にもなっている仏教は、その本来の目的から離れつつあります。平安時代初期に完成された律令体制も勃興している武士の力によって崩壊の危機を迎えていたのです。こういう時代においては、宗教はもっとも簡単にしかも真実の仏になりうると思われる道を選びました。法然、親鸞の念仏はその時代の要請に応じました。これは、庶民にとってたいへん実践性に富んた教えです。だから、日本人社会にどこかでこのような信仰による物事の考え方が根強く残っていると思います。

  善悪の二極性に陥りやすい中国人

  そこで、私自身の体験から見ますと、中国に一般民衆が受け入れた教えは敵を如何に恨む、そして友を如何に愛するという内容が圧倒的に多い。私は北京生まれ育ちですが、同じ街の子供達は、両親とよく映画を見に行きます。見た後、子供が必ず両親に聞く。いまの映画に悪い人が誰ですか?それを知ったら、また学校の先生に言うのです。さらに同じグラスの子がだれかその映画の悪人ととても似ていると言われたら、まわりの子供に相手にされなくなります。なぜなら、その子は悪い人ですから。これを例にしますと、やはり物事を運営するには、たいへん極端に行き易いのです。子供社会だけではなく、大人でも同じ傾向があるのではないかと思います。私の知っている中国の作家がいます。最近、次の小説を書きました。喧嘩の絶えない夫婦が真剣に離婚を考えるようになり、妻が実家の母親に相談を持ちかけると、母は悪いのは一体どちらの方かと尋ねます。「悪いのはどちらでもない」と答える娘。すると母親は、突然無口になり背を向けてしまいます。母親は戸惑ってしまい、娘に何の助言も与えられません。なぜなら、善悪を明確に線引きするいままでの価値観がくずれてしまったためです。こうした八方塞がりの状態は、まさに現在のわが中国社会と同じといえるでしょう。

  苦難こそ信仰の原点

  「歎異抄」の著者はかつて親鸞の教え子だった唯円ですが、彼はこの本を書き始めたのが三十九歳か、四十歳くらいです。中国の古い言葉に「三十歳で自立、四十歳で惑わず」と言われていますが、人間は四十歳まで迷うもののようです。言い換えれば、四十歳という不惑の年齢は、成熟した年代とも言えるでしょう。

  その唯円は、親鸞が死んで、二、三十年後、自分の想起した師匠(親鸞)の言葉を書き込んだわけです。それは「歎異抄」という題が示すように異を歎いたというものでした。唯円の時代に親鸞の教えはひろく布教されましたが、同時に、誤解されたり、歪曲されたりしたこともたびたびありました。こうした世間の異を歎き、信仰を師が唱えたような元の姿に戻そうという強い願いによってこの書物は綴られています。それは、熱烈果敢ともいえる親鸞の一言一句から浮かび上がっています。

  念仏者は無碍の一道なり (「歎異抄」第七章)

  私は「歎異抄」を読むたびに、その実践性に基づく信仰の熱気に打たれ、いつも生命の尊さを実感させられます。

  親鸞は人間の力に絶望していまず。それは不惑の年でたいへんな苦労の重ねた月日を過ごしたことにも原因があるでしょう。三十五歳で念仏停止になり、越後へ流罪、先輩たちが受刑された。親鸞自身も配流の罰によって、還俗させたれ、藤井善信という名前をもらいます。戒律持たずに肉食妻帯し、すべての迷いを仏の海に流す。阿弥陀仏を信じた彼は究極の境地に立っていたのです。この苦難を信仰の原点とし、自分の不惑を固めました。

  親鸞の反骨の精神

「歎異抄」の最後一つの付録がついています。私はそれを訳す時に悩みました。というのも、実はその最後の言葉は皆完璧の漢語でした。

  親鸞改僧儀賜俗名、仍非僧非俗、然間以禿字為姓被計奏聞了。

  俗名を賜ったということは、親鸞にとって恥辱であったことに違いがありません。彼は権力によって僧でないと宣告されました。しかし、彼は権力に屈することなく俗人とはほど遠い人生を貫きました。俗とは決別せんと「非俗」宣言をしたのです。そして彼は禿の字をもって姓となすことをお上に伝えたのでした。僧侶ではない、俗人でもない。これは、お上に対する強烈な反動です。そうした親鸞の反骨的な人柄が、上の一行の漢語から窺われます。

  「歎異抄」全体は片仮名と漢字で構成されています。序言の部分には、漢語の文章がありますが、それ以外では上の文章だけです。突然このような漢字一行が現われてきたのですから、翻訳者にとってはその意外性にかなり戸惑いを覚えました。しかし同時に、この結語には大きな意味があるに違いないと直感し、強く惹かれたのも事実です。

  私はこの漢語をそのまま引用するのではなく、現代中国人にも理解できるよう、そのニュアンスを味得しながら訳してみました。その時の意外性、翻訳の際に生じてきた迫力をいまでもはっきりと覚えています。これは、私が惑わずに直接に親鸞の情念を感じ取った瞬間であるのかもしれません。

  1999年6月18日 第78回顕真館公開講演会 龍谷大学 京都
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by amaodq78 | 2006-08-23 13:00 | 新聞雑誌掲載文
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