文学は読むものである

  中国現代の文学について語るには先ず順序として社会主義の「今」である中国のことから始めるべきであろう。文学は人間の口述から数えても相当長い歴史があり、それからの新石器時代に漢字があったとする説に従えば、少なくとも何千年ばかり遡ることになる。順を追って、文学のことをたどるとなると大変なことになるが、中国文学の当面する問題あるいは、その将来について考える立場からすれば、それほど昔のことにこだわる必要はない。勿論、文学の現代とは、日頃頻繁に実感するようなものではないが、非母国語の世界からこの分野にやってくると、おそらくふたつの視野を持つことになるだろう。

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  ひとつは、先人によって転写され、あるいは蓄積された中国の文学、つまり縦としての伝統的な文学である。これは、もともと漢字文化ならではの入りくんだ書記法の所産であり、これに比べれば、文学そのものに関する限り、言語の遊戯に限りなく近いものである。但し、これは多様な解釈によって得られる情報の数々は、おのずから別の性格をもつかもしれない。もうひとつは、そういう文学の歴史を誇示するような記述をさだめることもなく、横から結びついていく、あるがままにうけとるほかない評論、つまり率直な感想である。

  日本と中国を含め、現代社会では映像としての文学がいつのまにか領土を耕しはじめ、あたかも知の秩序を再編制するかのように、インターネットによる伝達行為を駆動する原動機にもなった。それに伴い、マルチメディアの向上は著しい。伝統的な文学でさえ、いったんデジタル化されると、すぐにも注目され、文学そのものとそれを飾り付ける表象が容易に本末顛倒の状態におちいる。

  そんななか、最近1冊の本が面白い。萩野脩二著『天涼』(三恵社刊)である。この本の狙いは、たんに著者主宰のWebサイトの書込みを収集するだけではなく、書いた文には生命の燃焼が篭もっていると確信しているからと著者はいう。本のタイトルが「天涼」というのは、いささか現代風には見えないような印象を持つが、これは「はじめに」によれば、初出は中国南宋の詩人の作から引用したものである。さらに著者は続ける。「有限に生きる人の生命のはかなさを、日常的に思わせられるからこそ、天涼好個秋と唱え、生きる者とともに歩み続けるほかないと思います」

  確かにインターネットは、ほぼ例外無く情報氾濫のモデルとなり得る。と同時に、われわれが異文化や中国文学などといったテーマに向かい合うとき、インターネットにはさまざま無意味な内容やコピーの横行を解消することが求められている。このような記録の役割に対するどのような判断も著者の伝達願望と密接に関係しているとも言えよう。特に中国文学のいまを表現する場合、気取らずにとにかく書いてみるという気持がこの本の中によくあらわれている。誰でも気楽に発言しやすい実名を伏せての投稿は歓迎され、立派な活字になっている。

  勿論、パソコン通信やインターネットでは、年齢や性別といったデモグラフィックな属性を偽れるから、実社会で当たり前に成立するはずの人間関係が崩れる。他方では、確かに普通ならお互いに遠慮しがちな壁をブチ破って、率直な感想を述べるコミュニケーションを実現するという点がある。かつてなら、知らない者同士が何か議論する場合、人間を募ったり紹介しあったり、或いはどこかで顔を合わせたり、面会の日時を決めるために連絡を取ったりする必要があった。いわば、あれこれコストがかかり、その過程で他人に気づかれたり、抵抗にすら会ったりするかもしれない。ところが、インターネットにはそれがない。何のコストもかけずに、議論のためのサークルを作れる。要するに「摩擦の少ない」コミュニケーションなのだ。

  こうした摩擦の少なさに守られる形で、議論の土台が存続することが、本書の大きな特徴である。個人的には、インターネットの匿名性がそのまま書籍に写されるのは残念なことだと思うが、net×bookという著者の試みは、現代社会から淘汰されずに残るコミュニケーションについて深く考えることを強いている。

  さて、話は戻るが、ここで中国文学のいまを語れる場として本書を見てみよう。登場してくる小説はすべてではないが、いわゆる名作ではない。読み方によっては、こんな小説の、いったいどこが面白いかと思われるかもしれない。本書の構成は、書評とあらすじ、後はゲストブックからの転載がほとんどであり、それほど堅苦しく如何にも学術っぽいものではなく、かといって、「こんな感じ、これまで誰も書いていなかったなあ」と思えてくることでもない。それよりは、常識に縛られずに新しい道を探し、net×bookでしかできない実験を行ったという印象がどこかにある。著者は、そんな微妙な感覚を、Webサイトの主宰者としても、うまく言語化している。特に、中国現代、当代の文学のある雰囲気があって、参加者の誰かがそれを常におしゃべりする。あたかも北京の茶館で皆が親しくお話を楽しんでいるようである。

  中国現代の文学については、学術誌に掲載される論文で実によく勉強している。しかし、あまりにも多くのことを言おうとして全体のイメージが不鮮明になり、ときどき失敗している場合がある。勿論、表現の技術が未熟なためということもあるが、それだけではない。研究テーマに限っては、知っていること、調べたことをすべて伝えようとするのがいけないのである。表現というものを、われわれの持っているものをすべて出すことのように考えているとすれば、それこそ未熟なのかもしれない。表現とは、もともとすべてを出すことができないものであるから、一般的に省略的となる。

  この点では、本書のもうひとつの特徴を垣間見ることができる。それはWebサイトに書込みつづけた皆さんの文は省略的だということである。投稿が省略的になりうるも、えないも、相手次第であるが、共通の関心事を論ずる人達が大規模にそこに集うことを可能にするインターネット、そしてお互いに相手との通信状態を経て、気心の知れ合った仲間になっていく。時としては、人間の顔が見えない「霧」の中に読み、理解することばでも立派に通用する。要するにどんなに微細に書込んでもこのサイト以外の人間にとってみれば、わかりにくいところがないわけではない。つまり、対内的には「摩擦の少ない」コミュニケーションであっても、対外的には文脈の難解を部分的に果たしていることになる。

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  一説では、表現の省略を貫けるのは一定の範囲内である。そうだとすれば、日本にとって大きな文化の差をもっている中国現代の文学には、原則として理解されないまま省略される危険性すら存在するだろう。それを阻止するためにも本書のようにnet×bookという新たなアプローチが大いに評価すべきである。

  それは文学の世界にとどまらない。中国の政治問題を論ずるものがおしなべて、脅威論か崩壊論のような極論を特色とするのは、表現がそれなりの削り落としの原理によっているからである。

  文学は読むものである。中国の文学を読むとは解釈することなり、という考えは漢文の表現と親しむ歴史の長かった日本にとって、抵抗もなく受け入れられるものであったと想像されるだろう。そこから、新たな表現を求めたいことは本書の魅力であり、だからこそ、と言ってもよい。この本には、新しい「道」が拓かれている。

(『東方』2004年3月号)
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by amaodq78 | 2006-08-27 01:08 | 新聞雑誌掲載文
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