雨後の筍

  ファッションモデルという職業は中国にとって、まったくの新しいものである。人民服一色の時代もそれほど遠い昔ではない。国の開放はまるで一夜に目覚めた時に、両眼に飛び込んできた光景であり、頭で理解もせず、街中の服装は日に日に変わっていく。こう言ってくれたのが、90年代の初期に世界を驚かせたモデル陳小姐だった。確かに、旧知の彼女と偶然にも北京の国際空港で会った時のことだが、私より身長高い彼女に、その清潔感のあるエキゾチックな容貌でまわりから多くの視線が注がれていた。

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  「これにはもう慣れたわ。みんなは、昔ならもっとジロジロ見てくれたけど、いまは、空港なんか行くと、モデルの女の子に会えることもちっとも珍しくないわ」

  「ということは、彼女達はいつも海外か、或いはほかの地方に頻繁に行くようになったっていうことかね?」私は陳さんに聞いてみた。

  「そうね。最初は上海から流行り出したの。それと、外資系アバレル業者も中国に進出してきたおかげでもあるわ。私が日系会社のファッションモデルオーディションの審査委員に勤めたのがいまから5、6年ほど前だったわ。その後になると、ほんとうに雨後の筍のように競って各社が中国人のモデルを発掘しはじめた。」

  確かに、日本では、モデルを夢見た女の子も、いろんなオーディションに挑戦しなければならないが、社会もそれなりの環境を整えていることも容易に理解できる。中国のいま、開放してから十年あまり、はたして華やかなデビューを目指す女の子にとって、たくさんの可能性が潜むと言ってもいいだろうか?

  「それは貴方、国から長いこと離れているからわからないかもしれないけど、いまはもう、毎日のようにどこかの会場で審査が行なわれているのよ。上海や北京のような大都会だけではない、小さな街でも繊維関係の商談会を開くたびに、人々は群になって、ファッションショーを楽しんでいる。それが無ければ、お客もこなくなるという恐れすらあるのよ。」

  陳小姐は92年のパリコレに出演し、その東洋神秘に包まれながらの身姿で高い評価を受けた。翌年、同じくパリでプロのファッションモデルとして活動開始。

  「海外よりはやはり、国内にチャンスが多いね」こう言いきった陳さんは、いま、モデル業をやめて、自分の会社を持つようになった。中国人モデルのプロモーションのかたわら、中国最大級のモデル育成学校もオープンさせた。そんな彼女は、いつも数珠を腕に巻き、時間がある時にかならず、北京市内のお寺にまいるという。

  「貴方はいま何を一番信じますか」と聞くと、彼女は真剣な顔でこう答えてくれた。「こころの中の仏さまよ、特に事業はうまく行かないときね」

(『仏教タイムス』連載・第29回)
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by amaodq78 | 2006-08-19 23:37 | 新聞雑誌掲載文
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