罪という訳語の難しさ



  二年ほど前に、私は倉田百三の戯曲「出家とその弟子」を中国語に翻訳した。しかし、検閲の壁にぶつかり、出版はすんなりと実現できなかった。編集者とあれこれ協議を重ねるばかりだったが、仏教についての表現が極めてデリケートであることは、最近になってようやくわかった気がする。

というのも、この戯曲の完訳原稿を知人の舞台監督にこっそりと読んでもらった後、同年代の彼は深く感銘したようだった。私が中国でこの戯曲をぜひ舞台にしようと出版や演劇の関係筋に色々と根回しをしながら、日中間における表現の違いを切嗟琢磨する必要もあると言ってきたからだ。

  確かに、その通りだ。戯曲を翻訳しながらも、時々個別の表現に対して、このまま中国語に直すと、果たして皆はその真意を素直に受け止めることができるのだろうか?編集者と舞台監督の意見は、多少なりとも疑問をもつ私に、いっそう完訳の原稿を再度読み直そうとその気を起こさせてくれた。

  そこで、一番大きな隔たりを感じたキーワードは、ほかでもなく「罪」という言葉であった。わずか26才の若さで、この戯曲を書いた倉田百三は、破戒的な仏教形式や人間の悲しさと不安、そして恋愛や性欲、ニヒリズムもこられの問題が混淆したまま、率直に「罪」という一語で示されたわけで、これも青春文学にとって他に稀であろう。罪とは、単一な表現ではなく、自己形成の原動力でもあり、人間を大胆に厳しい現実に向かわせる源流と言ってよい。ところが、この多重な意味を含む表現を中国語の理解に置きかえれば、まったく正反対の解釈に曲げられることもある。

  中国では、罪の概念はまず階級闘争から生まれたものだ、あくまで敵対関係に立ってはじめてその表現自体が可能になったが、戯曲のように恋に落ちた男女(僧侶唯円と芸者楓)の間に罪を纏わる葛藤もあるなど、一般の中国人は不思議に思うはずだ。

敵であったのに、なぜ恋人同士になったのだろうか?極限に物の考え方を運ぶことしかできない中国語の「罪」と奥深い親鸞の教え、そして日本人青年倉田百三との間に、どれだけその距離を縮むことができるのか、今すぐ翻訳の原稿を読みながら、じっくり考えたいと思う。

  今年の夏は暑くなりそうだ!

(『仏教タイムス』連載・第64回)
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by amaodq78 | 2006-09-05 23:04 | 新聞雑誌掲載文
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