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アニー・ベービー

 最近、何人かの作家の小説を読んでいて、多少なりとも感じることがあった。なかでも「主語」を拒絶した文体があることに気がつき目を見張った。この表現で筆がさえているのはアニー・ベイビー(邦訳『さよなら、ビビアン』泉京鹿訳・小学館2007年7月刊)である。

 今年の冬、北京で彼女に会ったときに直接たずねてみたが、そのときの答えはたしか「意識的にそうしている!」というものだった。以前は小説における人称に対してとくに注意を払ったことはなかった。「我」、「俺」にしろ、いまはやりの「偶」やなんかにしても、物語の構築に主語は決して欠かすことはできない。

 アニー・ベイビーの小説は「我」の指令をひけらかすことを嫌う。多くの文を見ているとあきらかに「我」がどうしたこうしたとわかるのだが、「我」という文字の痕跡を見つけることはできない。あるいはあったとしても極めて少ないのだ。

 「わたし」がない文体は情景描写の力量が問われる。とりわけ情景に枝葉をつける筆力は実際の情景をみているかのような境地に至ることが求められる!この点については母国語が中国語で幸運だったと思う。 

 これに比べて、日本語には苦労する!「我」がない文体はとりたてて珍しくないとはいえ、日本語のややこしい同音に遭遇するといつも途方にくれる。
 
 たとえば、「科学」と「化学」、「工業」と「鉱業」、「創造」と「想像」、「公爵」と「侯爵」などだが、これらの発音はまったく同じなのだ。日本語の講演ではあらかじめ主催者に黒板を用意してもらうようにしている。たとえ発音が正確であったとしても、聴衆が誤解することもある。もっとも合理的な方法はとにかく黒板に書くことなのだ!

 日本語は書くのに向いていて、話すのには不向きである!書いているときは主語の「わたし」を使わなくても、おおよその意味ははっきりとわかる。しかし、日本語を話すとき、主語の「わたし」を使うと、本来はっきりしたことがかえってわかりにくくなることがある。これは日本の政治家が話しているのをみれば、おおよそよくわかることである!

 ちなみに、アニー・ベービーの小説には、仏教などの博識に加えて物事の本質を見抜く力を持っているのである。
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by amaodq78 | 2007-10-07 23:33 | 文事清流
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