ともかく、中国語の文章である。読者に知られないように隠されていた表現方法を、どうしてもみんなに知ってもらわなくてはならないのである。そこで知る人ぞ知る存在らしい中国語の書き方について、洗いざらいその魅力を少しでも紹介しつつ、その手になる見本みたいなものをアピールしたいのだけど、美しい中国語といわれるにしては、実は自信があまりないのである。特に文法の詳細をまず知らない。それは標準的な文章を好まないことにも由っている。
だから、母国語上はともかく、その表現の現場を見ると、日本語との交換線がお互いには交わらず、時々放射状に伸びている図が見えるのではないのか?いわば言語の個別侵入である。別に侵入しなくてもいいんだけど。 日本語に限って言えば、日本人には真似できそうにないけれど、やはり長く、そして深く細かく日本語とつき合ってゆくには、中国語が最良の相棒なのだろう。言語は通じあえる道具だけではなく、感情のエピキュリアンでもあったのだ。 快楽主義と享楽主義だからこそ、人間は別の言語に対して、程度が違うかもしれないが、執着心というものを持つ時期が多いのだろう。勿論、一生持ち続ける人もいる。『中国語ジャーナル』の連載は早くも4年目に入ったが、現在、単行本の編集は継続中。
by amaodq78
| 2007-02-22 10:20
| 文事清流
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