日本語の息遣い

 日本語は真っ直ぐな表現が書きいいのか、それとも曲がりくねった表現が書きやすいのかと、つい考え込むことがある。書きやすいという言い方も何を基準としているのか、相当曖昧だが、僕の場合、どれだけ気持ちよく言い表わすことができるかという程度の意味だ。特に気張った文章を書くということでなくても、言いたいことが浮かんだときにパソコンに向かってキーボートをたたきこむ時の気分も大事だ。

 かつての僕は、真っ直ぐな、文章の完成まで見通しのつく表現を計算する癖がついていた。文の構想が細かく出来ているから、極端な言い方をすれば、文章は書き出しから最後の一文字まで一直線に突き抜けていて、カーブと言っても直角にしか折れていない。こうした構文は実に涼やかですっきりした印象を与えてくれる。

 しかし、このごろ、長らく日本に暮らして感じたのは、構文の正確さはときにもの寂しい思いを醸し出すということなのである。それは一種の徒労感を伴ったコクのなさでもある。勿論、母国語としての中国語には、それがないと言うことも明らかである。

 最近、僕は好んで日本語で固められた、ほんの些細なエピソードにも満たないくらいの小さなイメージを膨らませてみる。それは近所の裏通りを散歩する最近の習慣に関係しているかもしれない。何の変哲もない道だが、歩き続けているうちに不思議と心に充足を覚えるようになっていた。

 日本語での構文の発想を変えた頃から、暇さえあれば裏通りを歩いている。交通量の激しい表通りのすぐ裏なのに家並みも町家風で昔ならではの風情を満喫することができる。

 それでいて新鮮な思いに駆られたのは、裏通りに漂う好い意味での人間臭さ、しっとりとした情緒の重みのせいではないだろうか。

 ぼんやりと気晴らしに歩ける道が僕の近所にあったと思ういま、そうした道こそ、整然としすぎず、今の僕の日本語にぴったりと寄りそってきてくれる気がする。豪快さ、一直線は今の僕の日本語の敵かもしれない。自分の暮らしをじっと見つめた場合、曖昧模糊とした部分が残されているほうがよほど僕らしく、ほっとした感じがするのではないかと考える。

 直線が集まって出来たものは、今の僕にとって荷が勝ちすぎて、疲れすら感じるようになってきたようだ。
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by amaodq78 | 2007-02-19 08:33 | 文事清流
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