人を死に向かわせないもの

 人間は生まれたとき、すでに死刑宣告を受けているようなものだ。いや、「ようなもの」ではない。それはほかでもなく死刑宣告を確かに受けているのである。

 人間の歴史も誕生したときから、刻々終焉に向かって進行しているのである。何のために人が生きているのか、それと同じように歴史も何のために存在しているのか、と言えば、すべて死ぬ、すなわち終わるために継続しているのである。この事情は他の動物、例えば牛やウサギや蛇についても変わらないが、ただひとつ、人間だけはいずれ自分が死ぬ、歴史も消えることを知っている。

 先日から、『明王朝』(原題『大明王朝』)という人気沸騰中の中国の連ドラを非売品のDVDでずっと見ていた。本当は迷わないはずだと思われている歴史の偉大な人物が、じつは陰では迷っている、ということが実感できて、それでぐっと距離感が縮まり、中国の時代劇も読みやすくなった気がする。それはそうだろう、人間だから、とは思っていても、ふつうは考えることにはしない問題である。だからこそ、今回この連ドラに引きつけられたかもしれない。

 久しぶりに長時間ドラマをずっと見ていた。
 
 人間も歴史もすべて「未来への死者」として取り扱っているのが僕だけではないかもしれない。すべては滅びていくという不幸を逆手に取って、人を脅かし金儲けをしているエセ宗教家の数は多い。また、この不幸を深く自覚せずにうかうかと生きる人の数も多い。実は、明王朝において芸術に慰めを求めるか、仏への信仰に生きるか、救済はそれ以外にはないとのことが教えられているように思われる。

 昨年の年末、京都にある会議で稲盛和夫氏と会った。彼の目はいつも遥か遠くを見ている。会議での氏の何気ない姿を見るたびに、そう思う。いったいその目は何を見ていたのだろうか? 会議で最も強烈に飲み込まれた氏の言葉は「人間はいずれ死ぬものだから、その準備が必要ですよ」

 たぶん稲盛氏の目が疑視していたのは至近距離から無限大に至るありとあらゆる焦点距離から響いてくる、人間の言語を超えた神話的な「感性」だったのだ、と何となくそんな気がするのである。

『仏教タイムス』連載・第106回 2007年2月1日刊
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by amaodq78 | 2007-02-06 16:06 | 新聞雑誌掲載文
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