経験としての空間

 北京に送らなくてはいけない原稿があって、それを研究室のプリンタで出力していた。すると、北京、それもかつて少年の楽しい日々を埋めてくれたその巨大空間がいまになって過去のどこかへ私を吸い込もうとしているような錯覚を覚えた。

 北京とは、私にとっての唯一のそういう場所だ。神戸とはまったく違う。神戸では海からの風が吹き、波があって音も立てる。海の気配を感じながら、六甲山の頂は深い緑に覆われている。 空間は抽象ではなく具象であるはずだ。

 北京の冬は湿度がなく乾いている。実家のリビングで絨毯の上を歩きまわっていると、金属製のライターにもぱちっと静電気が走る。タバコを吸うにはマッチが必要だろう。窓の外のモダンで躍進する街から弱々しい太陽の光が射し込んでいる。

 乾いた季節に私は惹かれる。好きだった、といっていいかもしれない。食堂のテーブルから拾いあげた豚骨と輪ゴムで遊ぶ少年の私。文化大革命時代に発禁となった雑誌から切り抜かれたらしい版画の数々、早朝のラジオから流れる北京発の毛沢東の声…… それらの記憶は未だに消せない情景であり、ただぼんやりとそれを遠くから眺めている。なぜなら、かつての日常はすでにないからである。

 人間の記憶と空間はいったいどこからつながり始めているのか?私にはわからないが、気持ちのうえでは過去のどこかへ急激に吸い込まれ、そして落ちつくことを容易に想像できる。

 今から23年前、中国から日本へ向かった。そして日本語に接し、日本に生活することになった。それぞれの国に暮らす人間の気質や価値観といったものが違うのは当然のはずだが、その中にあっても日常という空間を突如として飛び越えることは不思議とたやすい。

 私はたった今、神戸にいながら、北京への気持ちをつないでいる。この空間の移動に比べれば、言語はいくら言葉を費やしても人間の思いを完全に言い表すことができない脆いものかもしれない。

 中国の現代宗教書によれば、空間とは、われわれをとりまく意味に満ちた世界のなかでの、つまり有意味的な場所のなかでの、関係性である。
[PR]
by amaodq78 | 2010-12-08 08:12 | 文事清流
<< 北京の暮らしのかたち 独り中秋節を祝う >>