日本語の静けさ

 日本語は室内にもっとも適した柔らかい言葉ではないか、最近何となくそんな気がする。部屋の中に静かに語りかけるには少なくとも英語や中国語より発達しているように思えるが、いざ公衆の前に講演を行うと、日本語が不向きであり、とにかく弱いものになる。

 人間は言葉で表現するときに、その多くは相手を前にして独白か、もしくは会話を続けなければならない。静かにしゃべればしゃべるほど、言葉の含蓄も大きいように感じられる。勿論、個人としてはこういう日本語に違和感を持っているわけではない。ただ、機会があれば、やっぱりシェイクスピアのように野外で叫び、奇声でも発しやすい言葉を聞きたい。

 いま、このようにして日本語にかかわり、すこし気になることを持ち出したのが恐らく私はこのごろ中国で『出家とその弟子』の舞台を目指しているからでもあるだろう。中国語訳を出版して以来、友人の舞台演出家に読んでもらったが、読後の感想を頂戴すると、真っ先にこれは間違いなく素晴らしい作品ですけれど、室内のおしゃべりが多くないかと逆に聞かされた。そう言えば、演劇文学では、いつも四畳半の部屋に対座しながら、静かにおしゃべりを続けるのでは、いわゆる鮮明な対立は起りにくい。

 かりに対立があったとしても、それをたった1ヶ所にずっと眺めつづける観客にとって、ドラマらしいものは成立しないだろう。

 例えば、親鸞と自分に反逆する一子善鸞の表現もそう。人間の生と死にあたっての静かなセリフが実にその多く迫真感を溢れ出すように思われる。日本語で演じられる場合に淡々と語られていくことは多いが、こういう特色も、いわば日本語が室内を頭において使われていることによるのである。開放的な空間で構想されなくても、それなりにみんなは通じ合えるように歩み寄りつつ、奥深いものを感じさせる。

 ところが、舞台の装置はまったく同じであっても、中国語は強弱のアクセントにともなって、時には誰かと突然くち喧嘩をはじめているみたいにメリハリは過剰である。そして、静かに語りかけたいセリフはここから少しずつ崩れ落ちそうになる。まるで戸外の演劇のようである。

 多少とも演劇の問題をはらんでいることを承知しているが、あえて日本語と中国語を室内と戸外に大別してみる。そして中国語訳『出家とその弟子』をいっそう心に染みるように中国での舞台をぜひ実現したいものである。
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by amaodq78 | 2009-11-28 09:11 | ノスタルジックな時間
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