心の中の風景

 外へ出てスケッチをするのは、趣味に過ぎないのだが、幼いころを思い出す。ときにはひとりで遠いところまで行った。

 油絵の道具箱を抱えて、いい場所が見つからないときには座ってまず空を見る。空を見ていた時間はとても長かった。当時、北京の豫王墳に住んでいて、家は二閘河沿い(現在は通慧河というはずだが)にあった。近くには大きな製粉工場があって、夏になるといつも変な匂いがした。臭いというわけでもいい香りというわけでもなく、とにかく変だった。

 それから数10年の時が流れた。今日の午後もおなじように近所にスケッチするポイントを選んだ。油絵の道具は持たず、少年時代のように大げさなものではない。じつは絵を描くとき使っていた小さな木箱は中学生まで使っていたが、その後触っていない。小学校の美術の先生は薜先生といって、スマートな身体に黒縁の眼鏡をかけていた。私と話をしているときに笑うととてもやさしい顔になって、幼稚園で世話をしてくれるお姉さんみたいだった。先生はいまも元気にしておられるだろうか?

 中学の美術の先生はあまり印象に残っていない。たぶん運動場でサッカーばかりしていたからだと思うが、かなり長い期間、一人で静かに地面に座って絵を描くということが好きではなかった。きっと少年時代の反抗期だったのだろう。しかし、最近中学時代の先生に会ったときに聞くと、当時の私はちょっといたずらっ気があったものの、やはり内向的なこどもだったそうだ。

 雨があがった。夕陽が海面を紅く染めている。空を仰げば、ちょうど雁の群れが飛んでいくところだった。なぜか一瞬、目の前にあるのが日本の神戸の海岸であることを忘れそうだった。自分が長年渡り鳥のように旅を続けているのも忘れて、着地点を探し当てたかのような気持ちになった。しかしまた、それほど帰る場所を渇望しているようでもないのだ。

 風景は毎日輝くときがある。私がこういうのは、人が風景のなかに入り込んだときにはじめて輝きを感じ取ることができるからだ。
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by amaodq78 | 2009-06-13 19:39 | ノスタルジックな時間
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