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ベルリン壁の崩壊は今月で20周年、しかし、僕にとっての記憶が、その直前のようすを語ったものを僕のカメラで何枚かの写真に収めたということである。今もたいへん懐かしく思っている。写真はその当時東ベルリンから見たブランデンブルク門の前の記念撮影と東ドイツの1989年の最後の軍事パレットなど。
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これは文化表現とその実践を集めた分厚い論集だった。フォーラムと書かれたその内容は日本語への挑戦に複数言語作家達の発言が記録され、実に前衛的な試みでもある↓
『越境する文学』土屋勝彦編 ![]()
25歳の頃から日本のことについて興味を持ち始めた僕は、いまでも持ち続けている。
大人の半分以上を超えて日本を見つめてきたつもりだったから、日常というものに、本質的に惹かれていることは確かだと言っていい。本質的にとは、僕の本質が日本の日常と、余計なものを間にはさむことなく核心どうしが直接的に、というような意味である。 先日、中国全土放送のCCTV番組のいったいなにがここまで、僕をとらえるのか。僕のなにが、日本の日常にそんなにまで惹かれるのか。 ![]()
JAL786便で大阪へ戻る。北京首都国際空港の登場口はE15番である。滑走路での離着陸から乗降口、ボーディングブリッジの接続まで眺めることができ、航空ファンにとって特等席といえるかもしれない。
豫王墳という古墳の近くで育ったせいか方角には敏感である。単に「永安里」といってもその「東西南北」が気になる。そういえば通っていた永安里二小の呂志存先生はいまもお元気だろうか?黒板を埋め尽くす先生の書く文字は決して乱れることなく、楷書のお手本のようだった。 記憶のなかの「永安西里」にもともと茶色の地色はないのに、いつからか茶色があらわれる。お寺の壁、あるいは葬礼など、過去を知る人に「豫王墳」を連想させるのだ。 ![]() 距離は心の啓示である。同じ風景も、距離があるからこそ記憶が濃縮され、希釈されもする。それが人に対してならば、なおさらだ。距離は人と人の感情をつなぐたった一つのものなのだ。 飛行機は黄昏が近づいたころ定刻どおりに目的地に着陸した。そして家路を急ぎ、もうすぐ神戸の家にたどり着くというときに、ふと目をやると、あるおじいさんがレジ袋からキャットフードを取り出していて、すぐに二匹の野良猫がどこからともなく駆け寄って来た。 この場面に遭遇して私は錯覚を起こしそうだった。なぜなら先週北京の自宅へ帰った日にも、家の前である中国人のおじいさんが同じように袋から餌を取り出すのを見たからである。そして北京でも同じように、どこからともなく野良猫が駆け寄ってきたのだった。そのネコは黒猫だったが、ベトベトするような黒光りではなく、ひとすじの黒煙のようだった。
言葉の面白さに取り憑かれて、かなりの年月が過ぎた。そもそもそのきっかけは、小学3年、同じ机を並べる友から借りた一冊の連環画だった。ほかの詳細は記憶にないが、ただタイトルに「封神」という二文字が入った気がする。いわば英雄といわれた人物の生い立ちからの物語だ。読みはじめはきっと嬉しかったに違いないが、その人物はいったい誰だったのか、さっぱりわからなくなったのである。
![]() 日本人学生にとって、中国語を学ぶ場合、ある種の疑似体験であると言ってもいい。言葉が違っても、言葉は言葉である。それによる想像力は縦横無尽に限りなくひろがるから楽しさ面白さも無限のはずだ。今回はこのような強い思いを抱いて、個々の発想で読むことができる本。また、学校の中ではなくても、どこでもこの一冊さえあれば、言葉を楽しむことが可能であるように、嬉しい極楽があればいい。
友人の弁護士先生の旅行記をアレンジし、映画評論で著者が披瀝した映画鑑賞法も含め、中国社会の観察に励んでいる人間にはじつに適切なアドバイスになるだろうと思い、幅広い読者にぜひ読んでもらいたい一心で来月の上海で出版に漕ぎ着けたのである。
![]() ![]() ![]() # by amaodq78 | 2009-07-26 22:40
ブログとは、もしかしたらほら吹き同士が交流する場だったかもしれないが、ただ交流ができたらの話である。
なぜなら僕がなるべくそのままで話を脚色しているのに、ネットユーザーはいつも五割増しくらいに読んでくるからである。お互いが割り増したり割り引いたりするのではなく、一方的に「おそらく話はこのあたり」という点を勝手に当てはまるわけだ。 ボーダサイトの女性編集者がいうには、もし阿毛博客のコメント欄が開放されれば、今やそのアクセスがとっくに億単位のはずだと。しかし、僕はやはり、一貫してこの手の交流はいらないのである。 問題が生じるのは匿名の書き込みにどうしてもいやなヤツが混じりあってくる時だ。とりわけ、割り増しの読みが暴走し、僕の割り引き感覚が通じず、話にギャップが生まれてしまう。 アクセスとは関係なく、毎朝歯を磨くのと同じように中国語ブログも書き続けようと思う。 # by amaodq78 | 2009-07-17 06:43
たとえば、政治事件などが世論を席巻したのはけっこうであるが、それのせいで今の日本で中国文学に対する関心が薄れていることは否定しがたい。実際のところ、文学蔑視が精神の貧困にもつながることは明らかなのだ。
![]() 本日、熱心な学生諸君の受講をみて、なぜか嬉しい気持ちになったのである。 中国といえば、物騒な世相など暗いイメージをいだく人も多いだろう。とりわけ現地での実感として、貧富格差に発する社会問題は深刻なのである。しかし、そういう国の文学が目に見えない場で着実な努力をしている。少々大げさに「中国」を語るが、文学の中での「本物」とは、実はこの激動な時代に存在しているのではないかとの感がないではない。写真は、女優+ミュージシャン+作家の田原さん(ティエンユエン)との公開対談、徐々に知られるその80年代生まれの世代の文学についても語ってもらったのである。 ![]()
絶望的なほど話がおもしろくないのは、申し訳ないけれど中国文学である。そもそも激流の中国は、もっといい文学を生み出せるはずなのに、なぜか小説はその存在を極端に小さくし、純文学すらたいしたことのないことでも重大な危機のように受け止めるというから、話がおもしろくなくなるのは必然だったかもしれない。
そんな中、彗星のようにあらわれたのが田原(ティエン・ユエン)というアーティスト。女優+ミュージシャン+作家などとしてその多彩な才能を発揮している中国の「80后」の代表格とも言えよう。初邦訳の小説は25日から講談社より発売中↓ ![]()
外へ出てスケッチをするのは、趣味に過ぎないのだが、幼いころを思い出す。ときにはひとりで遠いところまで行った。
油絵の道具箱を抱えて、いい場所が見つからないときには座ってまず空を見る。空を見ていた時間はとても長かった。当時、北京の豫王墳に住んでいて、家は二閘河沿い(現在は通慧河というはずだが)にあった。近くには大きな製粉工場があって、夏になるといつも変な匂いがした。臭いというわけでもいい香りというわけでもなく、とにかく変だった。 それから数10年の時が流れた。今日の午後もおなじように近所にスケッチするポイントを選んだ。油絵の道具は持たず、少年時代のように大げさなものではない。じつは絵を描くとき使っていた小さな木箱は中学生まで使っていたが、その後触っていない。小学校の美術の先生は薜先生といって、スマートな身体に黒縁の眼鏡をかけていた。私と話をしているときに笑うととてもやさしい顔になって、幼稚園で世話をしてくれるお姉さんみたいだった。先生はいまも元気にしておられるだろうか? 中学の美術の先生はあまり印象に残っていない。たぶん運動場でサッカーばかりしていたからだと思うが、かなり長い期間、一人で静かに地面に座って絵を描くということが好きではなかった。きっと少年時代の反抗期だったのだろう。しかし、最近中学時代の先生に会ったときに聞くと、当時の私はちょっといたずらっ気があったものの、やはり内向的なこどもだったそうだ。 雨があがった。夕陽が海面を紅く染めている。空を仰げば、ちょうど雁の群れが飛んでいくところだった。なぜか一瞬、目の前にあるのが日本の神戸の海岸であることを忘れそうだった。自分が長年渡り鳥のように旅を続けているのも忘れて、着地点を探し当てたかのような気持ちになった。しかしまた、それほど帰る場所を渇望しているようでもないのだ。 風景は毎日輝くときがある。私がこういうのは、人が風景のなかに入り込んだときにはじめて輝きを感じ取ることができるからだ。
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